13話

2018年現在、あれからもう十年以上経過した。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」という言葉通り、緑の家のメンバーの不幸も実に様々な形をとっていた。

いち早く緑の家から引っ越し、コミュニティ崩壊の端緒となった真は、離婚協議の真っただ中であった。血のつながりと呼んでも差し支えないほど長い年月を共有していた二人だっただけに、俺たち周りの人間ですら、その亀裂の理由に容易に触れることが叶わない雰囲気だった。
「何が原因なのかわからんのや」真はそう言った。
別れを切り出した彼女のほうにも、その正確な理由はわかっていないじゃないかと思う。

しんさんのあこがれでもあった(と俺は思っている)大ちゃんは、彼女の妊娠後、長いことを不通となっていた北海道の両親に和解を申し入れ、正式に入籍したのちに札幌に帰った。俺もその時知ったのだが、彼は大変な名家の息子で文字通り銀のスプーンを何本もしゃぶりながら生まれてきたということだった。
大ちゃんの両親は二人のために実家の裏の空き地に大きな一軒家を建ててくれた。
二人は新しい生活を始めた。
銀のスプーンとはこういうものだ。
2年と経たずに二人の子宝に恵まれ、すべては順風満帆に見えた。
ある綻びが二人を切り裂くのはそれから数年後だ。

もともとは山梨のヒッピーコミューンのようなところ(今時そんなものがあることには俺も驚いたが)で育っていた彼女は、名家の習慣と相性が良いはずもなく、ほどなくして隣家にありながら没交渉になっていた。
間に入ってその仲を取り持つべき大ちゃんは、なぜか悪名高い某宗教団体に傾倒しはじめ、煩悩との戦を始めていた。
肉食をやめ、性欲を断ち、日々のほとんどを瞑想と宗教の勉強会に使うようになっていった。
金銭的に困窮することはなかったが、大ちゃんと寝た後はるちゃんと寝るほど性欲旺盛だった彼女の煩悩が悲鳴をあげた。
ほどなく彼女は家を出て、離婚届けが大ちゃんのもとに届いた。
涅槃の向こう側の人になっていた彼はあっさりと離婚に同意したという。

手元には彼がインドに旅立った際に撮った写真がある。
犬だか猿だかのポーズを取って屈託のない笑顔で、インド人並んでと写っている写真だ。

12話

「どんな人?」2007年春。
「天使みたいな人」

俺としんさんは緑の家の俺の部屋にいる。
しんさんはそこで俺に恋の話をしている。

俺もしんさんもどうしようもないクズだから、それはそれは仕事を変わった。
倉庫整理、インターネット回線の電話営業、出会い系サイトのサクラ、テレオペ、飲食などなど。
中卒だろうが、前科もんだろうが、清濁併せ呑む表の仕事でそれはそれは働いた。貯金もなければ遺産もない。ヒモになるにも女もいない。そう。働かざるをえなかった。

時に俺は無職、伊豆で働いた金も尽き、家賃の滞納は5ヶ月を数えていた。しんさんはコールセンターでスーパーのクレーム処理をしていた。そこでしんさんは天使にであったという。犬も歩けば棒にあたる。部屋で逼塞してた俺は少々彼が羨ましかったことを覚えている。

「天使?」俺は、それはそれは悪い予感がしたが、何も言わなかった。俺だってろくなもんではなかったし、だいたい他人のことなんてその時はどうでもよいと思っていた。
「告白しようと思ってるんだ」そういうしんさんの顔は少年のようだった。「ふられてもいいんだ」

彼女がしんさんの最後の犠牲者になった。

11話

 パーティーが終わってから緑の家ではたくさんのことがあった。

大ちゃんの彼女の妊娠が発覚した。
真に彼女ができた。
操に彼氏ができた。
春ちゃんが激しいうつ病状態になった。
洋平が大学時代からの女と別れた。
しんさんも、説明した通り、一人になった。
俺も、御多分に洩れず、一人になった。
緑の家の主要メンバーがほとんど顔を合わさない生活になった。

共同トイレ共同風呂のアパートにどのくらいのあいだ人は住み続けられるものだろうか。とりわけガールフレンドや子供ができたりした場合に。時計の針はすでに21世紀を回っており、少しでも世間を知っている人間であれば、あんなゴミ溜めみたいなところに住んでいるやつとは関わり合いたくないことであろう。

結果として一人二人と緑の家を離脱するものが現れた。
2006年も終わらないうちに、緑に住むものは、俺としんさんだけになった。

猛暑

千代田区にある当工場の11時の気温は39度だった。首にまいたタオルが汗で2倍ほどの重みになっている。ためしに絞ってみると、冗談ではない、ばちゃばちゃと音をたてて床に黒いしみをつくった。
工場全体の空気は重々しく、人はもちろん、機械も物もスローモーションで動いているように見えた。天井に設置された扇風機さえも、最弱みたいなスピードで回っているのか、ちっとも涼しい風を送ってこない。

あと少しで昼休憩というところで、糸こんにゃくの型押し機のハンドルを形成していた板金工の坂田が、ヘルメットを茂木班長に向かって投げつけると、「やってらんねえ」とつぶやいて工場を去った。

報告をうけた工場長の俺が「ええ~マジでぇ」と現状を嘆いていたところ、品質管理マネージャーを勤めている阿部が自動ドアのセンサーテストをやっているラインの傍で倒れたという報告をうけた。急いで現場にかけつけると、腕をおかしな方向に曲げて、震えていた。
熱中症だ」茂木が阿部のめがねをはずしている。すぐに救急車を呼ぶように指示を出す。

救急車を待っていると、オフィス机の脚の先につける緩衝材を籠に入れる仕事をしていた永田が奇怪な声を上げながら、籠の中身を撒き始めた。先のラインで緩衝材を整頓して発送する作業をしている佐々木がそれを止めようと永田を捕まえたところ、毎日10キロのウォーキングで鍛えた永田が強靭な足腰でもって佐々木を振り払い、そして腰を入れた平手で佐々木を打擲する。
それを止めようとしたサランラップの芯を作る担当の藤井と田中だったが、どちらが永田を止めるかで口論を始め、「おれはやだよ」「そっちが年上だろ」「こういうのに年上とかないんだよ。お前のほうがたっぱがあるし、元野球部だろ」「そんなことしらねえよ。野球とどういう関係があるんだよ」「いつもそれだよ。お前はいやな仕事はなんのかんの理由をつけて俺にやらせようとする。おれもギザギザをつける仕事させろよ」「あれはテクがいるんだよ」などと、やがてそれは普段のオペレーションの不満へとおよび、ほどなく今度は藤井と田中が殴り合いをはじめ、それをみた佐々木と永田が二人をとめる仕儀と相成った。

そこへ救急車が到着した。正確にはみていない。サイレンの音が近づいてきて止まったのだ。
しかし待てども誰も来ない。藤井は高校野球でならした田中の豪腕から放たれる右フックをしこたまに食らって、左まぶたが完全にふさがり、鼻がひん曲がっている。すでに意識を失っており本来であればとうに倒れているところだったが、足腰が非常に丈夫な永田が藤井を支える形になっていて、佐々木は田中を抑えられないものだから、藤井はサンドバッグ状態になっていた。俺はその姿が見えていたが、目の前の阿部が泡を吹き始めたものだから、こちらの声かけに集中するため、見て見ぬふりを決め込んだ。

阿部が小刻みな痙攣を続け、失禁したのをしおに立ち上がり、介護を茂木に任せて、工場の門扉に通じる一番大きなシャッターをあけたところ、果たして救急車は止まっていたが、人だかりができている。
近寄ってみると、救命士2人が大声を出して右往左往している。後輪に下に見覚えのある顔が血まみれで横たわっていた。さきほどキレて出て行った坂田だった。

そんなわけで、たいへんな一日だった。

10話

2005年11月18日
俺たち、というのは緑の家にすむメンバー全員は、下北沢にいた。

下北沢というのは緑の家があった練馬区からみれば、極地、彼岸、最の果て。しかしカラー的には、完全に同系ということになるので、会場につく頃には町のあちこちにいるアングラ野郎たちと寸分たがわぬ世田谷面だった。
ミュージシャンや俳優を夢見て上京した若者たちの魂の遺骨が、竜巻となって空へと舞い上っている。多くの人々の夢を実現し、そして、その倍以上の数を踏みにじった街で、俺たちはイベントを開くことにしたのだ。

なんともお誂え向きじゃないか。
とうに夢に破れているのに、妄想とグリーンラベルの力を借りて、夢の端を引き延ばしている集団が、夢の砂漠でお祭りわっしょい。

緑の家に縁のあるものたちが集い、あるものは音楽を奏で、あるものは即興で絵を描いた。そして俺は映画を撮ることになった。
緑の家に住み始めた頃に、悪戯で撮った作品をみた春ちゃんが指名してきたのだ。

俺は三日三晩考えて、銭湯で着想を得た。筋書きは、ある男が死んでしまった友人からの電話を電話ボックスで待つというもの。
こうして文字に起こしてみるとずいぶんばかげた話であるし、だいたい金もないのにSFってどうよ?
だが、そのときはすばらしいアイディアであるように思えたのだから、人間の脳みそとはハッピー印にできているものだ。企業というものが創業して設立1年で60%が倒産・廃業するというのも頷ける話である。

このイベントにしんさんの彼女は来ていなかった。と記憶している。タイからはとっくに帰ってきていたはずだったが、長谷川が俺に伝えたとおりのことが起こったのだろう。そしてきっと彼女はしんさんの元を去ったのだ。

さて、しんさんは、何も創作しない代わりに、会場の屋上で例によってグリーンラベルを飲んで大騒ぎし、警察が出動する事態を生成した。
警察は二回きた。一度はしんさんによって、もう一度は大ちゃんとタケチのいさかいによって。後者は大ちゃんが夢中になっていた女にタケチがあやをかけたとかいうどうでもよい話だったが、屋上で横になっていた二人をみた大ちゃんがタケチの頭を蹴り上げたというから、恐れ入る。向こう見ずも甚だしい。漫画じゃないんだからさ。

そういうわけで会場を貸してくれた店長と懇意だった春ちゃんは面目を失い、予定していたよりも2時間ほど早く全員が会場を追い出され、イベントは閉幕となった。逮捕者を出さなかったことが嘘のようだった。

9話

しんさんが金を借りにきた翌週から俺は新しい職場で働くことになった。給与はそれまでの3倍ほどになった。それまでが時給900円なんだからたいした金額ではないが、それにしたってそれまでの3倍というのは逆にその程度の収入の人間にショックを与えるには十分な金額だった。

金がたくさんあればそれで幸せ、というわけではないと人は言う。
確かにそれは正しい。
というのは、俺は全くそのことによって幸せにならなかった。
どちらかというと不幸になった。
肥大した自尊心は人を不幸にしこそすれ、1円だって与えてくれないものだ。
四書五経に通じ、アイスキュロスからコッポラまで嗜む俺は、もちろんそのことを知っていた。
ただ知っているということと、その時が来た時に正しく振る舞えるかどうかというのは別の話であることを身をもって味わうことになる。
俺は沢山の人を傷つけ、多くのものを失い、そして働きはじめてから9ヶ月後にそのとても素敵な仕事をしくじった。

俺に金を借りにきた後、しんさんは予定通りタイに行った。俺を除いた緑の家のメンバーからそれぞれ金を借りたという。
みさおからも借りようとしたと聞いたときに、悪い予感はしていた。はっきりと別れたというわけでもない女に、今夢中になっている女と会うための金を借りようとするだって?ごく控えめにいって、出鱈目だ。
しんさんがくだらないレッドブルのTシャツをお土産に戻ってきてから一月後、長谷川が俺の部屋をノックした。心配とも恐れともつかない目をした長谷川を見て俺の心配は確信に変わった。
「あの子から電話があってね」
長谷川の話した話はまさに耳を覆うような話だった。
バンコクについたしんさんは、カオサンロードに向かい、必要なものを揃えた。
その後、彼女がステイしている村まで駆けつけると(NPOインターンで過疎った村にいた)、迷うことなく静脈注射し、自分自身にも打って、繰り返し彼女に精を放ったという。
へえ、と思う間もなく、長谷川はさらなるシュートを放ってきた。
「それでね、彼女、妊娠したんだって」
「しんさんはなんて?」
「ことも無げに、産めっていったらしいわよ」

8話

土曜日の朝、俺の部屋の扉がノックされた。
「誰?」前日も遅くまで酒を飲んでいたから少々不機嫌。我ながら声が尖っている。
「俺。しんすけ」昨晩、たっぷりと部屋でグリーンラベルをご馳走になっていたので開けないわけにはいかず這いずるように起き上がると扉を開けた。
「いま何時?」日は随分高く登っていたが昼過ぎというわけではない。にしても、朝まで飲んでいたのに関わらずしんさんの顔色は昨晩と幾ばくの変化もなかった。
「そろそろ10時かな。ごめんね、早くに」しんさんは坊主頭をかきながら、久しぶり俺の目を見た。

ご存知の方もあるかと思うが、よほどのことがないと●●●●ーは人の目を見て話さない。習いの性なのか、生まれつきの人嫌いなのか。

「いやさ、彼女がタイにいてね」そうやって同じ話を何度もする酔客に出会うことはそれほど珍しいことではないが、昨日の今日でお互いシラフでわざわざ寝起きにリピートされることはやはりレアで、どないしてん?と訝っていると、しんさんの口がスローモーションに開いた。
「金貸してくれない?」

その後の景色は霞みがかっていてで正しい像を結ばない。

彼は、彼女がタイにいること、自分がそこに行きたいこと、だけど金がないことを、15分ほどかけて伝えた。

昨晩、散々グリーンを飲ませてくれたのは故なきことではなかったのだ。

俺はしばらく考えて「ダチと金の貸し借りはしないんだよ」というクールさを損なわず、かつ金も減らないセリフを紡ぎだし難を逃れたが、追っかけでしんさんが被せたのが「洋平は貸してくれた」だった。

「洋平は洋平、俺は俺だ」

しんさんは歪な笑みを口の端に浮かべて廊下の角に消えて行った。