9話

しんさんが金を借りにきた翌週から俺は新しい職場で働くことになった。給与はそれまでの3倍ほどになった。それまでが時給900円なんだからたいした金額ではないが、それにしたってそれまでの3倍というのは逆にその程度の収入の人間にショックを与えるには十分な金額だった。

金がたくさんあればそれで幸せ、というわけではないと人は言う。
確かにそれは正しい。
というのは、俺は全くそのことによって幸せにならなかった。
どちらかというと不幸になった。
肥大した自尊心は人を不幸にしこそすれ、1円だって与えてくれないものだ。
四書五経に通じ、アイスキュロスからコッポラまで嗜む俺は、もちろんそのことを知っていた。
ただ知っているということと、その時が来た時に正しく振る舞えるかどうかというのは別の話であることを身をもって味わうことになる。
俺は沢山の人を傷つけ、多くのものを失い、そして働きはじめてから9ヶ月後にそのとても素敵な仕事をしくじった。

俺に金を借りにきた後、しんさんは予定通りタイに行った。俺を除いた緑の家のメンバーからそれぞれ金を借りたという。
みさおからも借りようとしたと聞いたときに、悪い予感はしていた。はっきりと別れたというわけでもない女に、今夢中になっている女と会うための金を借りようとするだって?ごく控えめにいって、出鱈目だ。
しんさんがくだらないレッドブルのTシャツをお土産に戻ってきてから一月後、長谷川が俺の部屋をノックした。心配とも恐れともつかない目をした長谷川を見て俺の心配は確信に変わった。
「あの子から電話があってね」
長谷川の話した話はまさに耳を覆うような話だった。
バンコクについたしんさんは、カオサンロードに向かい、必要なものを揃えた。
その後、彼女がステイしている村まで駆けつけると(NPOインターンで過疎った村にいた)、迷うことなく静脈注射し、自分自身にも打って、繰り返し彼女に精を放ったという。
へえ、と思う間もなく、長谷川はさらなるシュートを放ってきた。
「それでね、彼女、妊娠したんだって」
「しんさんはなんて?」
「ことも無げに、産めっていったらしいわよ」