17話
福ちゃんは、こう言った。
「ずっとそうしなくちゃそうしなくちゃって思ってて。ていうか、そう思ってることにすら気がつかないほど、ごく当たり前に染み付いてたんだと思う」
「笑顔でいることが?」
私たちは松原真が脚本監督した映画を撮るために緑の家の裕三の部屋に集まっていて、自分がこれからどんな人間になりたいかという話をしていた。
さすがだ。凄まじく本質的かつ非生産的な会話である。27歳ですよ!
福ちゃんは宙見つめると、少し目を閉じた。
自分に失望したんだよね。私ってずっと笑顔で楽しそうにしてなくちゃって、笑えなくなって初めて気づいて。笑おうとしても無理で、なんでなんでって何回も。
「その時、福は初めて自分と向き合ったんだよね」しんさんはそういうと、福ちゃんの肩をそっと抱いた。
窓の外で、鳥が鳴いた。真はカメラを回し続けた。
1-9
水井近子は、最終的には、布原銀行の頭取に納まった。
水井の父は地方銀行の課長どまりではあったが、子供3人を私立幼稚園に入れ、市街地ではあるが3階建ての2世帯住宅を建造し妻の両親を引き取るなど大した甲斐性の持ち主だった。それにも関わらず、水井は心底から父親を軽蔑していた。
水井が空想の中で思い浮かべるのは欧州の代替続くような富豪一家のイメージであった。城を保有し、世界中にある別荘を季節ごと渡り歩き、テニス、乗馬、スキーに興じ、パーティーに次ぐパーティ。好きなことだけを好きなだけして、過ごす日々。
その他大勢のサラリーマン同様、水井の父は毎朝判で押したように6時半に家を出て、帰ってくるのは22時過ぎだった。休みの日にはスーパーに買い物に行き、運動はからきしで、休暇に家族を連れて遠出といっては趣味の城巡りに駆り出すだけだった。
水井は高校を卒業し、一浪するとそれほど偏差値の高くない東京の女子大に入学を決めた。そして引っ越してから二度故郷に戻ることはなかった。
「あなたが宗教家さん?それとも鍼灸師さん?」水井は青いエルメスのハンドバッグを施術用のベッドに放り投げると、パンプスを脱いで、そこに横たわった。「解してよ」
布原は、妻以外の女性を知らない。
「ぼ、僕は、あの話を、はな、はあ、」意味不明の言葉を発したのちに、ミニスカートから覗く足に目を奪われて言葉がでなくなった。
長く続く夫婦についてニーチェはこのように言っている。
「どちらも相手を通して、自分個人の目標を何か達成しようとするような夫婦関係はうまくいく。例えば妻が夫によって有名になろうとし、夫が妻を通して愛されようとするような場合である。」
水井は、布原をあっという間に篭絡した。のちの悪の両輪が出会った瞬間だった。