第十八話

私の妻はもともと音楽方面の仕事をしていたのだが、体を壊して第一線からは退き、それまでに稼いだ金で湘南に家を建てた。白塗りの壁に黄色の屋根で、三ヶ月に一度はカーテンの色を変えていた。
亀を数匹飼っていた。
「ちょっと、ヤスシ、悪いんだけど」私はちょうど出勤前で洗面所で髪を梳かしているところだった。「今晩出掛けるから、帰ってきたらこの子たちに餌をあげておいてくれない。夜を抜かすと次の日ものすごく機嫌が悪くなるのよ」
「機嫌が?」
「そう」彼女はほとほと困り果てたという顔を作って私の額あたりを見据えた。
鏡を覗き込みながら、私は機嫌の悪い亀を想像してみたがうまくいかなかった。
「わかったよ。何をあげたらいい?」
「冷蔵庫にささみが入ってるからそれを細かくちぎってあげて」
「OK」
家の外には妻の赤のボルボと私の黒いマセラッティーが並んでいる。扉のすぐ傍にあるポストは淡いブルーで塗ってあり、そこから石畳に沿って様々な植物が飢えてある。右手には物置があり、左手には小さいながらも手製の池があり、亀たちはそこに住んでいた。木で作った低い柵以外に我々の家と外界をさえぎるものはなかった。

外界。
まだ、私と妻が出会ったばかりのころ、我々は自分たちが二人でいる空間とそれ以外の時間を完全に分けていた。もっと言えば、外の世界を外界と呼び忌み嫌っていた。
我々は働くことが苦手で、時間通りに行動することが何よりも苦痛だった。毎晩帳が下りる頃に起きて、夜通しで映画を見たり、音楽を聴いたりしていた。時々、ちょっとした派遣の仕事をしたりもしたが、基本的に二人の両親に交互に甘え、様々な理由を拵えては金を引っ張っていた。我々にとって生活するということはすなわち苦痛以外なにものでもなかった。
他人よりも余分な利潤を欲しがるがために世間はギスギスしている。あるとき妻は私に言った。
「つまりね、街の商店街よ。過当競争を防ぐための手段。分散、不可侵、わかる?」
「私にはわからない」と私は言った。