第十九話

分散と不可侵

言葉の上では理解できるし、非常にわかりやすい表現だったが、妻の口から発せられたその語にはもっと深い意味があるはずだった。私はゆっくりと煙草を吸いながら続きを待った。
「つまりね」妻はアイスコーヒーの入ったマグカップを両手で抱えながら口を開いた。
「商店街ってのは、みんなが程よく充足できるシステムなの。一つの商店街に魚屋は一つ、肉屋も酒屋も一つずつ。余計な競争はなし」
「本屋は?」
「本屋ももちろん一つ」
私は首を傾げることになった。「もし仮にその本屋の主人か女主人かが・・・」
「本屋は、女主人よ。そう決まってるの」彼女はきっぱりと言った。
「まあ、じゃあそこの女主人が、ハーレクイーン以外は本じゃない、なんて言い出したとしたら・・・」
「そしたらそこの本屋には、もちろんベタなラブロマンスが溢れる」
「僕は、私は、皆さんはハーレクイーンなんて読みたくない」
「それはご愁傷様」まるで他人事のように言うと彼女はクールの緑のパックから煙草を一本取り出した。そして火をつけると口の脇から煙を吐いた。
「ちょっとわかりにくかった?」私は心配になって訊いた。
「何が?」
「その、本屋のこと」
彼女は煙草を持っていないほうの手を振ると言った。「もし肉屋に鶏肉しか置いていないなら、私は鶏肉しか食べないわ」
「それじゃ退屈じゃないか」
「退屈のどこが悪いの?」
「だって、退屈さには神々も旗を捲くってなんかの本に書いてあったよ」
「どうせ村上春樹さんでしょ?」
「ああ、そう、そう。『風の歌を聴け』って本にニーチェの言葉だって書いてあった」
「だから?」
「いや、だからさ、つまり一般的に言って」
「一般ってなに?」
「一般は・・・一般だよ。通俗的な話をすればってこと」
「私は私たちの話をしてるの」

私たちはその後性交し眠った。夢の中にグリーンハウスが出てきた。私はそこで松原真と洗濯をしていた。二台ある洗濯機を一つずつ使いながら、一階の洗面所で立ち話をして煙草を吸い、洗濯機がビービー啼くのを待っていた。
とつぜん松原がビールが飲みたい、と言い出した。とくに断る理由もなかったので私はそれに賛成し、自分の部屋に財布を取りに戻る、と言って二階に上がった。

二階の一番奥の角部屋は扉が壊れかけている。勢いよくあけると皹のはいった戸の下側の木枠がはがれて、扉が扉の役目を果たさなくなってしまうので、私は気をつけながらノブを上に引っ張り挙げて扉を浮かせながらノブを引く。中では裸の妻がベッドの上で雑誌を読んでいた。性器を完全に扉の方向に曝しながら、頭にはしんさんからもらったソニー製のヘッドフォンをしている。漏れている音からそれがレディオヘッドの「パラノイアアンドロイド」だとわかる。妻はまるで私のことなど気がついていない様子で体勢も変えず、赤い表紙の雑誌を天井に向けながら読みふけっている。
私は机の上に置いてある財布を手に取ると、静かに扉を閉めた。