工場員は自分の目で物を見始めた

 結句、自分の瞳で物を見るということは、様々なバイアスは放っておいて、自分、ここにいる自分を中心に見て、感じることである。

 大したことではないけれど、意外とやってみると難しいことに気がつく。 というのは、意外と人は自分の瞳で物を見ていないから。

 見ていても、そこから自分の深淵に対して問いかけをしていない。 ただ漫然と見ている。 傍観しているのである。 そうではない。 それじゃ駄目なんだ。 瞳から、耳から、舌から、鼻から、皮膚から入ってくる情報を自分の経験、もっというと自分の記憶のフィルターを通して、どう感じていて、それがなぜそう感じられるのか、例えばいい匂いだな、とか、暑いな、寒いな、丁度いいな、美味しいな、不味いな、トマトに似ているな、奇麗だな、奇妙だな、汚いな、薄汚れているな、濡れているな、心地いいな、オールユーニードイズラブみたいだな、五月蠅いな、なんてことまで、隅々にわたって自分の感覚を問い直す作業。 それが自分の瞳で見る、ということなんだ。

 そらあ、面倒くさいし、そんなことにそれほど意味があると、ぱっと見には思えない。けどね、オールライト? 積み重ねていくと、自分の心を揺り動かしているのがなんなのか? その正体がだんだんと見えてくる。 

 気が狂いそうになる瞬間、 目の前の人間を殺してしまいたくなる瞬間、 頭にきて何かを粉々になるまで叩きたくなる。 そんな時が、生きているとごまんと(は言いすぎかもしれないけど)あるわけで、どうしたら自分を収められるかといえば、心をコントロールする糧が必要なんだ。 糧だよ。 無から有は発生しない。 心を動かすのにだって何かの力が必要だ。 例えば池の水面を想像してほしい。そこへ大きな石を放り込むと当たり前のように波紋が起こる。この波紋を抑えるのにはやっぱり同じくらいの石を同じような速度で投げる必要があるわけだ。それが、自分を見つめた結果、得た糧なんだね。

 これからどんなことが待っているのか、それはわからない。 だけども何が起こってもいいように、心の糧だけはたくさん持っていようと思う。