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ジュネーブ修士課程をおえ、ケベックに帰国したエミリーは大手の信託銀行に勤めはじめた。
三期連続でインターンを引きうけた甲斐もあって、まわりは知った人間ばかりで、仕事に不満はなかった。給与や待遇でもまったく文句をいえる状況ではなかったが、エミリーは9ヵ月後、カウチポテツの仲間入りを果たしていた。

「オフィスにいてね、こう、息をしていても、空気が入ってこないって感じよ、わかる?」
「わからない」と素直に俺は答えた。
「つまりね、こういうことよ。朝出社する。コンピューターの電源を入れて、珈琲を淹れる。一杯目の珈琲を飲み終えるか、飲み終えないか位のところで朝の会議が始まるわけ」
「ひょっとしてその話、長くなる?」俺が言うとエミリーは笑いながら、煙草に火を点けた。
「じゃ、ダイジェストで話すわよ」
俺はわかったという風に二度頷いた。

会社を辞めたエイミーはケベックの大学に入りなおし、博士課程を目指した。「なんていうか、不安だったの。このまま毎日オフィスに行って珈琲入れて、会議して、メールを見てなんて、あと何十年もやっていけるかな、って」

同じ研究室にイワサキヒロユキという浅黒い肌をした痩せた男がいた。「なんていうか、細くて硬い筋肉でね、髪なんかボサボサなの。でもね、目つきが鋭くて、ハンターって感じだったわ」

そのハンターイワサキは、理由はわからないが、ひどくエイミーの心を惹きつけた。「なんていうか、あれが恋に落ちるって感じなのかしら」
二人は卒業を待たずに結婚し、卒業するとともに、日本へと向かった。