★ 1130

彼女はバーに居心地悪そうに腰かけ、氷がほとんど溶けてしまったマウンテン・デューのグラスの底をストローでかきまわしていた。
「昨日はどこにいたのよ?」
俺が隣に座ると、彼女は発作みたいに訊いてきた。
「ずいぶん、古い話だね。思い出せないな」
「じゃあ質問を変えるわ。私、こんやあなたと寝るかしら?」
「言ったろ」俺はマスターにジョルト・コーラを頼んだ。「カウチはそんな先の約束はしない」
エイミーはあきらめたように首を振ると、煙草に火をつけた。指先がかすかに震えていた。

エイミーはカナダ人で、背骨と骨盤の間にハートの刺青をしている。3センチくらいの小さいやつだ。ブラウン交じりの黒髪を腰まで伸ばしていて、瞳はグリーン。小さくとがった鼻をしていて、賢そうな薄い唇にはいつも“パールピンク”の口紅をしていた。

彼女は、ケベックに留学中だった日本人と学生結婚して日本へやってきた。1999年のことだ。
「んで、旦那は何処にいる?」初めて出逢った夜、俺はエイミーに訊いた。
しばらく無言で灰皿を見つめて彼女は言った。「話したくないわ」
「どうして?」
目の前にある灰皿に勢いよく煙草を擦りつけると「亭主持ちがバーに一人で来ていて旦那の話なんてするわけないわ。そうでしょ?」と言った。
俺は返す言葉もなく、「まあ、確かに」と言った。

「でも話したほうがいい」しばらく後で、俺は言った。
「why?」
「First of all、どうせいつかは誰かに話すことになるし、secondly、俺ならそのことについて誰にもしゃべらない」

その夜、エイミーは“何か”でひどく酔っ払っていて、バーにいたバンドマンたちに“as time goes by”を強要していた。 さあ、もう一回よ、サム。 あの頃弾いてくれたみたいに!
比較的歳の若いそのバンドマンたちは(信じられないことに)、“as time goes by”を知らなかったようで、とんでもなく狼狽していた、いや、僕たち、サムじゃないですから、なんて言いながら。

♪ You must remember this
A kiss is just a kiss
A sigh is just a sigh
The fundamental things apply
As time goes by.♪

俺が店にあった安物のアップライトで曲を弾き終わると、エイミーが泣きながら拍手をしているのが見えた。
「うろ覚えで、手が震えたよ」 俺は手を振りながら、エイミーに言った。
「何かおごるわ」涙を拭いている左手の薬指には、銀色のリングがはめられていた。