第六章 外伝 ~ 概ね珈琲

5月の朝のことだ。
羊の父は、ようやく訪れた春の朝日で目を覚ました。隣ではひどく疲れた様子で妻が静かな鼾をかいている。羊の父は静かにベッドから降りると、忍び足で玄関へ向かった。

分厚い朝刊をポストから引きずり出して、玄関口に腰掛ける。そして新聞を開くと広告を抜き取った。
ちょうど東向きになったガラス張りの玄関から柔らかい朝日が射していて、朝露にしっとりと濡れた靴を暖めている。
妻は不審がるが、羊の父は玄関で早朝読む朝刊がNHKの朝ドラマの次に好きだった。一面から丁寧に読むと、パンダの保護色と政治家の守秘主義的な行動との共通点を挙げた記事があり、目を凝らしてきちんと読んだ。
贔屓の野球チームの試合結果に不満な態度を表明すると、新聞を畳んで静かに扉を開け、外へ出た。

空気は誰もいない浜辺のようにまっさらで、鳥達は恐る恐る彼らの歌を奏で始めていた。しばらく庭の盆栽を眺めて廻ると、視界の端にピンクのボンボンが幾つも映った。
それは隣の家の庭から羊宅の庭にはみ出た遅咲きの八重桜だった。しばらく逡巡した後、羊の父はその桜の下まで行って、素早くその枝を一つへし折って、玄関に滑り込んだ。頂戴すると決めてから、たった17秒の早業である。

したり顔でドキドキした胸を押さえると、戦利品をじっくりと眺める。
隣の婆さん、怒るだろうなぁ、と羊の父は、隣の婆さんが怒るさまをリアルに想像してみた。
「あなた?」と妻が台所から呼ぶ声が聞こえた。

「ああ。なんだ起きてたのか」暖簾を潜ると妻が寝巻きの上にエプロンをしてお湯を沸かしていた。
「お茶でいい?」
ああ、と何気なく答えた後、背中に隠していた桜の枝を妻にみせた。
「あら、きれい」と妻は言った。
「隣から拝借したんだ」と羊の父は誇らしそうに言った。
「大丈夫なの、面倒くさいことにならないといいけど」妻は心配そうにそう言うと、自分用にインスタント珈琲の粉の入った瓶を戸棚から取り出して、それをスプーン2杯分マグカップに入れた。

「俺も珈琲入れてくれないか?」

妻はひどく仰天した。「あなた何かおかしなものでも食べたの?」
「どうして?」羊の父はまるで訳が分からないといった顔で訊いた。
「どうしてって、結婚してからはじめてよ、そんなこと言ったの」
「そうだっけ?」
「そうよ」妻は訝しげに答えた。そしてしばらくすると「まさか、パンは食べないわよね」と恐る恐る訊いてきた。
結婚当初から父方の祖母に朝はご飯にしてあげて下さいね、と口うるさく言われていた妻は静かに答えを待った。羊の父は軽く耳をほじると「俺はパンが好きなんだよ。子供の時から朝はずっとパンが良いって思っていたよ」と答えた。

事の顛末から話すと、この後、妻は、本当は朝にはお茶と珈琲どちらが飲みたかったか、を訊ねた。そして、まぁ、気分にもよるが、概ね珈琲かな、と答えた2日後、妻は家を出た。羊の父は四方八方に電話をし手紙を書いて、妻の行方を捜した。しかしその行方は、依然として分からなかった。
羊の父はその間、様々なことに思い巡らした。食後にごちそうさまを言わなかったことがあったか、髪型を変えた日にきちんと気が付いてやれたか、結婚記念日は、誕生日は、血液型、旧姓の苗字(過去の別の恋人のものと混同し安い)、果ては夜のお勤めか。しかしそのどれもが妻を失踪に駆り立てるには不十分だった。
そして失踪してからちょうど14日目の夜、苫小牧の親戚宅に居候していた妻の方から電話が掛かってきた。妻は頑として家に帰ることを拒んだが、羊の父と北海道をドライブしようという提案にはしぶしぶ承諾した。
函館で待ち合わせていたら、約束より1時間遅刻して羊の父は現れた。一剥れして小言の一つ二つ言うと、妻がかねがね行きたがっていたという店で特選いくら丼を食べて、大きいタラバガニを2羽買って留守番をしている羊の元へ送った。
大小さまざまな湖でボートを漕いだ。ゆったりとした午後の日差しを27年分は浴びただろうか。妻はそんなことを思った。そしてドライブをしてから2日目の晩、魚の壁紙のラブホテルで、ようやく帰宅の同意を取り付けることに、愚鈍な父は成功した。

事件から13年後の秋。羊が結婚を約束した相手を紹介するために実家に訪れた折、羊の父はまず最初に羊の将来の妻に向かってこう訊いた。
「君は朝食はやっぱり日本食かね、それともパン食?こいつは朝はムズリしか食べない。それから最近は珈琲より紅茶だな。そうだよな?」
彼が、件の経験からどれほどの教訓を得たかを示す、心温まるエピーソードである。