人生とはと愚考する超工場員が

いま私は工場の離れにいてこっそりとNRPのHPを開き、今朝聞いたThe Lemon Twigsという兄弟バンドのファーストシングルカット「As Long As We're Together」を再生しながらこの文章を書いている。
https://soundcloud.com/thelemontwigs

Bobが紹介した通り、Beatly(ビートルズ風)のマイナーセブンスコードで始まり、息も絶え絶えといったか細い声で囁くように歌う独特なボーカルが蓋し印象的である。

工場勤務なのにラジオ?しかもブログ更新ってどういうおつもり?
そういうお声もあるかと思う。
勤勉であるということは大切なことだが、もっと大切なことがある。

それは自分が楽しむことである。
さっきNPRのインタビューに答えていたポール・マッカートニーが言っていた言葉だが、
「僕たちは生きているために生きているのではなくて、楽しむために生きているのだ」

自分が楽しんでいないということはどういうことか。
それは死んでいるよりたちの悪いことである。

「神様がおれたち人間をつくるときに何かまちがいをおかしたとしたら、それはおれたちが生きる理由などなくなってもまだ生きたいと思うような代物にしてしまったことだ」

これはジム・トンプソンというタイ国の有名なシルク製品の店と同名の米国の作家が書いた「おれの中の殺し屋」という小説の一説で、私はちょうどタイで新設工場を作るために同国を訪れていてバンコクのホリデーインでこの本を読みながら、日夜、文字通り闘いを繰り広げていた。
タイ工場の新任担当者は素人に毛の生えたような人で、仕様をバンバン変えてくるし、いじわるで、指の長い、けれどパーティーシャツを羽織っている不思議なやつだった。

...まあ、それは関係ないんだけど、まさにこの小説の主人公にして殺し屋、保安官助手ルー・フォードの言のとおり、我々は生きる理由もなく生きている必要がなくても死ねない。死ねないように設定されている。絶望したってなかなか死ぬことはできない。

そしてもっというと、別に生きている理由など、本当はない。
つまり生そのものには目的性というものが欠如しているわけで、ポール御大の御言葉を補完させていただくとすればすなわち「(楽しむために生きている)と楽しい(のだ)から死にたいと思わない」

俺は人生をその程度に考えている。
だから人生は楽しむためにある、みたいなことを言う人はあまり信用しない。
人生はすでにある。その中で何をするかが大事なのに、楽しまなければ人生じゃないと言わんばかりのアプローチには反吐をはきたくなるのだ。

人生とは死ななかった結果にあるもの。
俺はそのくらいに考えているのだ。

と工場員は愚考した。