第44話

レースのカーテンがひらひらと揺れる様を飽きもせずずっと見ている。
ここ北品川病院211号室には他に3人の入院患者がいた。各人各様の病を背負っており、その見舞客も異なっており、三日と置かず訪ねてくるものもあれば、1週間に1度だけ仕方なくといった態で、というものもあった。私はというと、妻が何度か訪れる他は誰も見舞いにはこなかった。それもそのはずで、所在を誰にも明かしていないのだから、逆に誰かがきたらたいそう驚いてしまったことだろう。

医者の言によれば、左半身の各所に複雑・亀裂骨折が見られるほかは、脳波も安定しているし、1ヶ月もしないで退院できるだろうとのことだった。
「りんご、持ってきたよ」昼過ぎに妻が訪ねてきた。「ほーら、甘そうでしょ?」
私は2度頷いて、赤々としたりんごを眺めた。妻の手に納まったりんごは確かにとても甘そうであった。すると妻はりんごを私の鼻先に持ってきてその香りを嗅がせてくれた。青い果実の香りに混じった芳醇な糖蜜の匂い。私はその香りを嗅ぐといてもたってもいられなくなり、妻に頼んで車いすを借りてもらい表へ出た。
「すこし肌寒いね」私は後ろで2輪車を押す妻を見上げて言った。
「今日はこれでもだいぶ暖かい方よ。昨日なんてお日様が完全に隠れちゃって、なんだかこの世の終わりみたいな一日だった」
私たちは斑になった陰のようなビル群を抜けて第一京浜を渡ると、新馬場の駅のほうまで足を伸ばした。中途見つけた黄色い看板のラーメン屋でやたらとあぶらっこい醤油ラーメンを食べ、商店街を抜けて、海岸通りに出た。私が事故を起こした橋桁まで来ると、妻は疲れたと言って欄干に腰掛け、タバコに火をつけた。
「やっちゃん、ここでなにやってたの?」
「うん、茂木鳥を観察していたんだよ」
「茂木鳥って?」
「俺の頭の中に存在する野鳥だよ。たまに見えることがあって、あの日がたまたまその日だったんだ」
「ふーん」
「そういうのってないかい?」私は妻からタバコを一本拝借すると煙を深く吸い込み、川に向かって吐き出した。妻が返事をしないので、話はそれを潮に止んで、片側を走る車の音だけがびゅんびゅんと私の脳を揺らした。
「茂木鳥は、一種の比喩なんだよ。例えばほら」私は信号待ちをしている営業車の一つを指差した。「あのいらいらした運転手はなかなかのイケメンだろう?」明らかに興味を失っている妻を無視して私は続けた。
「彼はどんな人かな。結婚は、、、している。指輪がはまってるね。子供はいるだろうか?歳は何歳だろうか。仕事は、北斗食品とあるから、その会社の営業マンなんだろう。北斗食品は、ちょっとまってね、ああ、宮城県製麺屋さんだ。調べればたいていのことはわかるね。どうやら彼は遥々宮城からやってきて、東京で麺を売っているんだね。白石ナンバーだから、彼は宮城県の出身であるだろう可能性が高いね。とまあ、こんな風に彼についての情報が少しずつ集まってくる。君は彼の事が少しわかった気になる」私はここでいったん話をやめて、タバコを一口吸った。「でもね」と私は話を続ける。

「でも今のところ、君は彼の何も知らない。何もわかってはいない。事実の断片を組み合わせて、君が理解し易いだろう彼の像を勝手に構築しているだけなんだ。俺も君も彼も彼女もあの人もこの人も、ほとんどの人がそうやって勝手に自分が理解し易いように事実の断片を組み合わせて、自分の都合良く世界を構築しているだけなんだ。その事実だって、本当はどうだか怪しいもんだ。あの北斗食品はただの偽装で、実は彼は麻薬売買をしているのかもしれない。結婚しているようにみえるが、実はすでに奥さんに先立たれて独居で位牌を胸に毎晩泣き伏しているのかもしれない。それは彼に聞いてみない事には、わからないことなんだ。でも、聞いてみたところで彼は嘘をつくかもしれない。いや、そもそも彼自身がとらえるイメージや事実と思われる情報を誤って認識していて、その謝った認識の上に作った世界。それを君に伝えるかもしれない」
ふと妻を見ると携帯電話をいじりながら私に完全に背を向けていた。
「そうなんだ。そうなんだよ。その態度。グーよ、グー。結局、そんなことを考えだすと、世界とは向き合って生きていけなくなる。俺は困り果てて、茂木鳥を構築した。何歳くらいだろう、7歳くらいのころかな。俺は目の前の人間をなるべく正しく理解することは諦めて、虚像を人間以外のところに求めたんだ。目の前に存在する人間に対する理解だと時として他人と共有する必要が求められるからね。誰にも共有を求められることのない、俺自身の中にだけ存在する野鳥茂木鳥。茂木鳥は俺の心の平和の象徴なんだよ」
私の話が終わったのを見て取ると、妻はタバコを川へと放り、きっとこちらをにらんだ。
「やっちゃん、茂木鳥のことをもっと教えてよ」
私は虚を突かれ、気がつくとグズグズに泣き濡れていた。抱きしめてくれた妻の胸は温かく、桃とラベンダーの香りがした。