読点

文章を書いていてよく悩むのが、この読点です。
いまさら文章読本もないですが、川端康成、谷崎純一郎、三島由紀夫丸谷才一など、名だたる名作家たちが読点の使い方に関して一家言持っていたと記憶しています。
誰がなんと言及したのかくらいは覚えていたいものですが、多読が功を奏してか、いまではすっかり忘れてしまっているのだから、忘却というのは真に素晴らしいものです。だからといって本棚を漁って、いちいち探しだすのも面倒くさいし、何より過去の作家たちがどのように句読点に難渋していたのかをここで論うのもあまり面白い作業ではありません。
30を越えてからはそういった類の“ひけらかし”には興味を持てなってしまったのです。
間違った使い方をしていた方が却って面白い、ということもあるのですね。とりわけ、句読点の使い方にはそういった側面が多く見られます。

読点で思いだしたのが中学校のころの国語教師のことでした。中学一年生と、たしか三年生のころにもこの先生に教わっていた記憶があります。
彼は私たちにこう言いました。
「100mをダッシュで走ったあとに、言いたいことが全部言えないだろう。息が切れてしまって」彼は差し棒を折りたたみ、顎のしたに当てて、周囲を見渡す。
「はあはあはあ、ちょっと、すいません、あの、道を、伺いたい、のですが、いいですか、とこんな具合に文章が切れるよね。そこが句読点を打つタイミングだよ」

あれから20年近くが経過していますが、今でもよく覚えています。
ちなみに読点は“とうてん”と読むのであって、“どくてん”ではありません。
私は長いこと、句読点(くとうてん)とは発音できていたのですが、読点は“どくてん”と覚えていました。
恥ずかしい話です。