第二十二話

400日ぶりに出社するとセキュリティーゲートで止められたのでございます。
「ちょっとIDをこちらへ」若年寄みたいな雰囲気の青年が、ってそりゃどんな雰囲気の青年なんだ、なんてことは訊かないでいただきたく存じます。実際に私は見たのでございますから。
「はいはい、K0719091のスズキヤスシです」社内IDを管轄する部署へ男は電話をいたしまして、数分後私は社長室に呼ばれました。
地下駐車場からのエレベーターしか直結していないというお噂の、12階のフロアーで降りますとまっすぐ伸びております社長室までの廊下を、私はことのほかゆっくり歩いたのでした。なぜといって、廊下の両脇に陳列してあります「コレクション」たちを見て回るためでございます。世界中の蝶がピンを刺されて壁に貼り付けてあるのです。
自動ドアの前に立ってみたのですが、センサーが働かないのか、うんともすんとも言いません。途方に暮れた(言いすぎですね)私は、左隅にあるインターホンを押しました。 しかし、誰も返事をいたしません。 こうなったらと、最後の手段とばかりに、右の拳でもって力いっぱいごつんごんとガラス扉をノックをしてみましたところ、パチンと乾いた音がして錠が外れたようでした。音もなく曇りガラスの自動ドアは開き、物音ひとつ立てずに私の背中で閉まり、またパチン、と乾いた音がしたのです。社長というものはこんなところに金をかけたがる人種なのでございます。

ガラスの仕切りを二つ潜り抜けますと、濃紺に塗られた扉がありました。私はドアノブを回しました。
控え目にいってなにもない部屋でした。一人が使うには広大すぎて、部屋の中央に置いてある机さえも、なんかの間違えでここに運ばれてきてしまったような、そんな違和感を放っておりました。
きれいに伸ばした白髪をクルーカットにしていて、何か表情に決意というものがみられない、まがい物の顔つきをしておりました、ってまがい物みたいな顔つきってどんなだ、とか訊かないでくださいませんか、実際の話。 私は見たままをご報告しているだけでございます。
座っていても十分にわかるほど、お背が高く、とても痩せた老人でございました。 濃紺のストライプのスーツを着ていらっしゃいまして、シャツは何の装飾もないプレーンなものに、細身でお赤のボウタイをしていらっしゃいました。 身長は190cm、体重は70Kg前後で、引き締まった左手の手首にこれまで私が見たことのないようなブランドの時計を填められていらっしゃいました。
「いや、久し振りだね、鈴木くん」とその男はおっしゃいました。
「ご無沙汰しています、社長」と私は自動的にお応えしておりました。HPで何度かお目にかけておりましたので、どなたなのかはすぐに知れました。
「まあ掛けたまえ、タバコは?」
「吸います」
「そりゃいい」
「社長も吸うんでしたっけ?」
「私は吸わないよ。女房がアレルギーでね。結婚してからだから、かれこれここ35年以上は吸っていない」
「詳しい御説明ありがとうございます」
「いや、とんでもない。 いま、珈琲を持ってこさせる」テーブルについている電話を取り上げて、珈琲を二つ頼む、とおっしゃると、社長は大きく息をお吐きになりました。まるで山一つ坊主にしたばかりの樵のようなため息でございました。
え?どんな樵などと・・・。無粋なことはお互いやめにいたしましょう。私は実際この目で見たのですから。
「何日ぶりかね?」私が煙草に火をつけると社長はお訊きになりました。「君ももうわかっているかとは思うが、もう1年以上は勝手に仕事を休んでるんだぞ。何の連絡もしないで戻ってくるとは、どういう了見なんだ?私のこの貧弱な想像力で計りかねるよ、鈴木君」
私は二口ゆっくり煙を吸い込んで、輪っかを作ると、息を吹きかけてそれをかき消しました。なぜと言って、賭けてもいいですが、スモーカーというのは宙にある輪っかをどうしても吹き消したくなるものなのでございます
「家庭はすべてに優先する。そういったのはあなたですよ、社長?」ちょっと挑戦的過ぎたのかわかりませんが、社長は「うん」と端的にお応えになると、満足そうに鼻の穴を膨らめました。
「うんって」
「うん」
すると唐突に(と私が感じただけですが)、控え目なノックの音が聞こえまして、社長は煙草の箱くらいのサイズのリモコンを持ち上げますと、扉の方向に向けてボタンを押したようです。
社長の秘書がお盆を持って入ってくるではありませんか。「珈琲お持ちいたしました」
30歳を越えたばかりくらいの髪の短い女性で、洗いざらしジーンズに白いブラウスを羽織っていらっしゃいました。
「ああ、御苦労」鷹揚に社長は言いました。
「ここに置いておきますね。あれ、鈴木さん、久ぶりですね」

私はどぎまぎして、うまく顔をあげるのもおぼつかなかったのです。それは私の妻でした。