今までの音楽、これからの音楽 2

文学に限らず、写真、映画、建築、音楽などの文芸活動は、いまやその活動フィールドを欧米に移しつつある。

川端康成黒澤明三島由紀夫岡本太郎イサムノグチ村上隆坂本龍一村上春樹
数え上げればきりがないけれど、欧米文化人の審美眼に適う文芸作品を世に発することのできる日本人がちらほら現われ始めた。つい20世紀の終わりごろからの話だ。

しかしながらそのクオリティーはというと、ケタはずれに優れているとは言えないように思う。
ボクは何も彼らの作品にけちをつけているわけではない。
ただそれらが欧米で評価されるに至った経緯を考えると、暗澹とした思いに駆られるのだ。

つまり、それらの作品は正当に評価されているというよりは、日本にもこんなことを考えている人間がいるんだな、位にしか捉えられていない、一種の目新しさから来る評価をされているだけだからだ。

作品の真の質を理解し、真摯に感動を受け、反応する。
理想論だと言われればそれまでだけど、ボクは文芸作品とはそういうものだと思う。

ボクはそこのところにある程度重点を置きつつ、読者を楽しませるように工夫して書いたつもりだったけど、友人たちにしてみれば、読者の反応をうかがう作品なんて本屋に行けば手に入るのだから、書く意味など(ましてや読む意味など)ない、と考えたようだった。




そんなわけで、ボクが書いた‘まともな’作品郡はくそみそに叩かれ、どちらかといえば荒唐無稽で、技術の欠片も使っていないような作品に評価が集まった。
例えば「羊の図書館」の[the 17th story ~とめどなく 夢を~]や[ the 19th story~ 「些か」「砂」~]や、「AMS」の[ 物語は・・・]など、千切れかけた意識の断片、みたいな作品に評価が集まった。

そして厳しい評価と共に、さまざまなお題を頂き、これからそのことについて書いてみたいと思う。
テーマは表題どおり「今までの音楽、これからの音楽」だ。

たぶんボクはこれを書き終えたときに、何か大切なものを得ると同時に失ってしまうような予感がする。
それが何なのか、今はまだ分からない。
文章というのは、本当に不思議なものだ。