第十五章 子社長の趣味

緑屋商事2代目社長は(元社長と言うべきか)、通称“小社長”と呼ばれていた。所以は父の大社長よりも身長が20センチも低かったことが大きな理由だった。チビという言葉に異常なコンプレックスを有していた社長が、近しい人間に自分を小社長と呼ばせていた所以は推して量るしかないが、多分、究極的なマゾであったのだろう。という結論で終らせるには、紙面が足らない。別の機会に譲ろう。

さて、小社長は会社を潰した張本人だが、一つだけ素敵なものを後世に残した。

それが現在羊が訪れている「CLUB Cave」と呼ばれている、この地下のライブハウスだった。

彼がユンケルとロックをこよなく愛したことは、社員寮の103号室で完全に廃人となった松原真が現在でも全くのフリーオブチャージで住んでいることからも多少は知れる。

103号室に住んでいる松原真は、正真正銘の松原真だった。あの「奏でる扉」を作曲した、松原真。1970年代に日本をロックの熱狂の渦に巻き込んだ松原真。

1999年、ノストラダムスツアーの最中、静岡県の田舎町でコカインを致死量以上摂取して、死こそ免れたものの脳みそが文字通りチーズのごとく蕩けてしまい、言葉もまともに話せなくなった松原真に活動の場を与えるべく、小社長は社員寮の地下に7000万円の資本投下をして、完全防音で当時の最高設備を整えたライブハウスを建設した。
以来、この社員寮では毎週土曜日に松原がライブを行い、それを住人が聞くことが寮訓とされた。

しかし肝心の松原はというと、脳みそがゆるゆるになってしまった為だと推測されるが、とにかくギターを無意味に掻き鳴らしては最後にそれを燃やし、フェンダーのアンプを親の仇かというほど蹴飛ばした。松原は数限りないギター、ベース、ドラムセット、マイクロフォン、アンプを壊し続けたが、小社長は松原への投資をやめなかった。いつか松原が復活してくれる日を夢見て、ギブソンやらフェンダーやら、その時々で松原が欲しがるギターや設備に惜しみなく財を投じた。

ライブハウス設立から2年目の夏の午後、小社長は逮捕された。横領罪だった。
設備設計から生じた莫大な借金の返済のめどが全く立っていなかった上に、度重なる松原の浪費で、小社長は終に会社の金に手をつけたのだ。その後の社長の行方はわかっていないが、住人たちは今でもきちんと寮訓を守っていた。

ざっと50人は集まっている、かつての又、現在の住人達がフロアで酒を飲んだり、談笑したりしている。ステージでは、松原真を筆頭に、ベース、ドラムの人間が、恣意的としか思えない適当な雑音を出し続けている。

入場してから15分後、羊は初めて生で松原真の「奏でる扉」を聴くこととなった。

「奏でる扉ぁ!!!」人の群れにもみくちゃにされながら、羊はステージ立つ(正確には立つこともままならないのでワイヤーで吊るされている)松原に叫んだ。

「あぅぁわ?」今までただ爆音でギターを掻き鳴らしていた松原は手を休め、羊の言葉に反応を示した。

「奏でる扉ぁ!!!!!!」もう一度羊はリクエストをした。

ざわざわ・・・。群集は雑音をやめた松原を凝視している。

涎を垂らしながら、スポットライトを眺めていた松原は2,3音を確かめるように弦を弾くと、C♭で始まる「奏でる扉」のメロディーを紡ぎ始めた。ドラムやベースも静かに音を重ねていき、緊張が高まる。

{ さてさて、皆々様へ♪ }

今まで意味不明の雑言しか吐いていなかった松原の口からまともな日本語が飛び出したとき、観客は一斉に沸いた。松原は震える指でフレットを果敢に抑えて、歌いだした。

{ 時は1970年 世界は平和を望みました。 希望は瞬く間に潰えましたが、残像だけは残りました

 東と西の争いごとは 罪なき人を悲しませ、罪負うべくを潤しました

 どこかの誰かの賭けゴトの尻拭い 一体誰に負わせるべきでしょうか

 時は1271年 元は中国を覆いました。   色目人の束の間の転寝が、唾吐く原人と呼ばれるのです}

ちょっとアレンジされている風だが、それは確かに「奏でる扉」だった。

羊はまもなく意識を失う。それが松原の歌によるものか、初めて口にした酒のためかは判然としないが、羊はまもなく意識を失う。