第七章 轟と羊の関係

賢明な読者にとって、この部分は飛ばしてくれて構わない文章だ。先へ進んでほしい。

人称と視点の距離観がどうしてチョコチョコ変わるのか?

では、書き手の位置を説明する。

ボクは27歳の羊、すなわち轟と呼ばれる成年の深層心理だ。轟は羊で、羊は轟であり、ボクの深層心理の担い手だ。こういう意味で、羊はボクの象徴である。

そして今ボクは、轟成年自身が自分に語った思い出話の中のキャラクターの象徴としての役目を真っ当するために、この文章を書いている真っ最中である。
ややこしい話を抜きにすれば、これは未来の轟成年が、過去の轟少年に向けて書いた、メッセージであると言える。

もちろん、時間というものは巻き戻らない。a――→b の、一方向性の関係だ。だからこれは、27歳の轟の自分の記憶に対する挑戦だとも、いえる。記憶はいつだって簡単に書き換えられるから。一生懸命生きている人間ほど、そういう傾向にあるような気がする。そして轟は一生懸命生きているのだ。


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常に自分史の勝者でありたい。これは、人々の止み難い欲求であり、またもっとも恐れるべき犯罪でもある。記憶の書き換えが行われた時、往々にして赤は白に、白は黒に、そして黄色はオレンジに映る。その時の習慣であったり、アンチテーゼであったり、僅差の違いであったりの影響で・・・。とにかく、記憶は書き換えられるのだ。
記憶される対象である真実の片鱗を持つ人間達が、言葉を発し忘れると、歪んだ現実のフレームがあなたの記憶に覆いかぶさる。さもそれが真実であるかのような、そんなフレームを。

今こうして、ボクの脇で踊っている松原真や、その他大勢の踊り子たちは、すべて幻かもしれない。

幻想と現実の間に横たわる、希望と落胆の織り成すハーモニーが、聞こえるか?

過去とは、不可逆的な忘却の海で、いつだって形を一定としない。そしてそれは、あなたがそのように求めるから不定形なのではなく、不定形だから不定形なのだ。



私事を書きすぎたが、この体験から、様々な教訓を汲み上げてもらえると信じて続ける。