第五章 Lost virgin

「それでそのスウェーデン人は、高官に種を渡したの?」
女の子は煙草を灰皿において、髪の毛を一括りにすると手首に巻いてあったバンドで結びながら首を振る。「もし私が彼女だったなら、渡さなかったと思うわ」
「だろうね。唯一の形見だもの」羊は最もだと言う風に首を縦に振った。
でも、と女の子は続ける。
スウェードの小袋に入った種が形見なんて、なんか素敵ね」女の子は笑った。羊もつられて笑った。
「ところで聞きたいのだけど、結局それは“静けさ種”なの?」女の子は羊の指差した先にある煙草に視線を向けると、これは煙草よ、馬鹿ね、と今度は大げさに笑った。羊は笑わなかった。


気が付くと、隣で居心地悪そうにしていた化粧品屋の息子は店外にいた。何やら緊急の事態が発生したらしく慌しく携帯電話をいじくっている。
「Everybody has got thier own battle fields」 羊は《奏でる扉》の2番のブリッジのハモリ部分を口ずさんだ。
「それ、松原真の?」女の子は大きく眼を見開いた。
「そう。知ってるの?っていうか、なんで分かったの?」
「常識よ」

「彼はいいの?」店を出ると二人は駅の道沿いを歩いていた。女の子はクスクスと笑いながら答える。
「あれは、私の弟よ」
「ウソ?」
「嘘」

壁に掛かっている額縁をそっと外す。フォトフレームとは違い、その額縁は、空気が入らないようにねじでしっかりと止められている。自分の部屋からドライバーを持ってきた羊は、女の子を見た。
「開けちゃって大丈夫かな?」頼りなさそうなのは、羊だ。
「大丈夫よ、ちょっと聴くだけだから」女の子は深くうなずく。
意を決した羊は、ねじ山をなめないようにドライバーの先をゆっくり溝にあてがい、廻し始めた。秒針が2周もすると、二人はテラテラと濡れたように輝くレコードを手にしていた。
埃を被ったレコードプレーヤーの蓋を開けて、レコードをセットする。パチパチという乾いた音をさせて、まもなく曲は始まった。

「やっぱりアナログは音が違うわね」女の子は濡らしたティッシュを灰皿にして、煙草を燻らせている。

羊の家に“奏でる扉”のアナログ盤があるということを知ると、女の子は聴くまで帰らないと言って聞かなかった。女の子は1975年が世界にとってどういう年であったかと熱烈に語り、その中で「松原真」が果たした役割と、その意義を話した。女の子の口ぶりはいささか常軌を逸していたけれど、その熱心さに負けて羊は家へ案内した。両親は19時くらいに家に戻る。たまに母だけ早く帰ってきても、18時。今、時計は4を指している。羊の胸は何故だか重く、そして苦しかった。







17時12分

男には最高の瞬間が三つある。ヤル前の一杯と、ヤッた後の一服。


「“静けさ種”の話、続きがあるのよ」ベッドの上で女の子は盗聴器をもてあそびながら言った。
「本当?」羊は驚いて、起き上がった。シーツが肌蹴け、きゃっと女の子は叫ぶ。
「ごめん」と言って、羊は頭をかいた。そして枕元にある、彼女の煙草を手に取った。
「一本貰うよ」
「随便」

羊は驚いて眼を本から上げて、女の子を覗き込む。
「結局、彼女は」人差し指で羊の口を塞ぐと、女の子はウインクをした。そして言った。
「次の話も面白いわよ」