Bridge 2 「静けさ種」

「静けさ種」については、とある在日スウェーデン女性のHPに詳しい。

これは実話だ。

彼女が日本に住み着いてもう20年の月日が経つ。現在、彼女は重度のアルコール依存症を抱えながら、日本政府の生活保護で生活している。

20代前半の頃、1970年代の話だが、スイスのロザンヌにある小さな大学でサイノロジーを学んだ後、彼女はアジア旅行に出発した。モスクワの現役ロビイストだった父方の祖父の強い希望で、まず彼女はモスクワに足を延ばす。
政治腐敗が進むモスクワの街はあらゆる意味で殺気立っていた。レニングラード駅には乞食が溢れていて、祖父が彼女を駅で発見するまでに、ロンドンで買った傘とお土産に買ったアクアビットが2本盗まれていた。
郊外にある家への道中、祖父は自分の仕事がいかに国の労働者のためになっているかを力説した。街での荒廃が嘘のように彼の家は豪奢であった。たっぷり40エーカーはある庭には20頭の馬が放し飼いにされていた。
束の間の休息の積りだったが、都合3ヶ月そこで過ごすことになった。
3ヶ月間、彼女は毎朝起きると馬に乗って近くの湖まで行き、泳いだり木陰で読書をしたりしていた。夜は遅くまで祖父と革命について話をした。ビザが切れる直前まで彼女を引き止めた祖父は、別れ際に一つの種を彼女に託す。
「これは“静けさ種”といって、今モスクワの上流階級の間で大変流行している植物だ。中国高官の友人に連絡しておいたから、北京に行ったら彼に渡してくれ」列車が発車する間際、彼は上質のスウェードでできた巾着を彼女のポケットにそっと入れた。
よほど大事なものなのだろうと彼女は考えて中国への乗り換え駅ウラン・ウデまでの間、肌身離さずその種を下着に忍ばせていた。

しかし事件は起こる。彼女がクラスノ・ヤルクスを通り過ぎる時に買った新聞に、祖父の悲報が載っていた。農民が決起したブルジョワ排斥運動のスピーチ中、極右翼の青年に刺されたのだった。すぐさま引き返そうかと考えたが、その先すべての駅でレニングラード方面のチケットは完売だった。結局彼女は引き返すことなくウラン・ウデで中国国境であるナウシキへ降り立った。

折りしも中国は鄧小平の開放路線が敷かれたばかりで、表舞台だけは活況に沸いていた。駅は売り子とどこかに忙しくむかう人々でごった返していて、まるでフルーツケーキのようだ。北京駅に着くと、彼女はすぐに高官に連絡を取った。電話に出た高官は、まず祖父の訃報についてしゃべった。そして一くさりの社交辞令のあと、急に声を潜めて、種のことを聞いてきた。