羊的回想 その2

「あんた、なんだか色々してるみたいじゃない?」ポンは腹を擦りながら開いた扉の前でそう言った。
「何がですか、ポンさん?」羊は、日曜日の昼間に突然現れたポンに驚きながらそう訊くと、仕方なく中に招き入れた。「まあ、入ってくださいよ、立ち話もなんですから」
ポンは口を半開きにして目を細め、おいでおいでをしている羊を無視してボウっと扉の前につっ立ったまま、「あんたってテレビのセリフみたいな言葉遣いするのね?」と言った。
「文章がえらいことになってますから、まあ、入ってください」
まったく失礼しちゃうわ、とかなんとか言いながらポンはサンダルを脱いで、部屋に上がった。そして入るなり部屋をキョロキョロと眺めて、けっこうきれいに使ってるわねと、ため息を吐くみたいに言った。
「結局は・・・・文章が織り成すメロディーに合わせて上手に濁点を打つってことなんですね」
「わかったようなこと言わないでよ、あんた馬鹿なんだから・・・それより隣のオキナワさんがね・・・」

それからのポンの話は割愛してみるとむず痒くなるからそれはそれで面白いのだけど、そうも行かないので書く。これはオキナワさんに宛てられたメッセージなのだから。
では、オキナワさん自身にそれを語ってもらおう。

「あのぉね、私のぉ隣のぉ羊さんん、ですね」
この“のぉ”は、もちろん、オキナワさんの喋り方の癖である。
「じつわあね、私が部屋を出るとおね、必ず一緒に出てくるんですわあ、彼はいったい全体私のぉことを監視してるんではあ、ないですかあ、ポンさんん」

「監視?」羊は驚いて目を見開く。
「そうよ、あの人、ちょっとココがやられてるから」ポンは頭を人差し指でつっつきながらそう言った。

つまり要約すると、オキナワさんは頭がやられちゃっている人なのだ。どうやられちゃっているかというと、思春期でもないのにホスト君との結婚に胸を膨らますキャバ嬢のように、やられちゃっているのである。トルーマンの「ウサギ小屋」に出てきた百姓みたいな人なのだ。しつこい妄想癖に駆られているのである。

今となっては、と羊は回想する。
「今となっては彼の妄想癖って、チューインガムみたいなものだったんだなって」
羊はその時、26歳の誕生日をガールフレンドに祝って貰っている真っ最中だった。吉祥寺にある小さなレストランだったが、料理はすごくしっかりしていたし、ハウスワインも葡萄の濃厚さが心地よい、ブルゴーニュを出していた。料理のうまさも手伝ってか調子にのりワインをがぶ飲みした羊は、訊いてもいないのに、その時のガールフレンドにオキナワさんの話を始めた。
「チューンガムって?」ガールフレンドは首を傾げてそう訊いた。その日、珍しくおめかしをしたガールフレンドは、短い髪をきれいに櫛で撫でて付けていた。形のよい頭にしっかりと寝かされた髪の毛に天井のクリーム色の間接照明が反射している。
「つまりさ、あれだよ、酔っ払って眠っちまったときなんかにガムが髪について取れなくなったって経験、あれだよ」
この説明にガールフレンドはブルブルと震えた。二人のバックグラウンドの深遠さに気が付いたのだ。「わたし、髪の毛にガムが付くほど酔っ払ったこともないし、そんな馬鹿じゃない」
まあまあ、といきり立つガールフレンドをなだめると話を続けた。
「つまりさ、すっげーしつこい妄想ってことだよ」

ポンはオキナワさんが007マニアで、自分を公安に追われていると錯覚している「精神分裂病者」で羊を公安の犬だと思い始めているんだと教えてくれた。頼んでもいないのに。
「あんたさ、手錠持ってる?」
「はぁ?持ってないですよ、ポンさん。あんたゲイで、さらにSM趣味まであるんスか?勘弁してくださいよ、マジで」
「違うわよ、オキナワさんがあんたが黒い手錠みたいなもんを腰からぶら下げてたって言ってたのよ」
「これのことですか?」
羊はそう言うとハンガーに掛けてある黒いフリークライミング用のウエストポシェットをポンに手渡した。
「ああ、多分、これね。今回はあたしがオキナワさんに誤解だったって言っておくから、あんたごみ捨て手伝いなさいよ」
これがポンのごみ捨てに毎週付き合わされるようになったファーストタイム。

さて、話は続く。
妄想が太平洋みたいに広がっているオキナワさんは
① いつも部屋でブツブツと誰かに向かって話しかけていた(もちろん部屋には彼一人だ)。
② トイレットペーパーが共同トイレになくなると、なぜか自腹で買ってきていた。
③ ビールは決して飲まず、日本酒一筋だった。
④ 仕事もしてないのに、背広にネクタイをしめて外出していた。

そしてあの晩がきた。