ネオバスに乗るのはひさしぶりだった。中村泰樹は二日前に電話で座席を予約した。
「船着場までは通常一時間半で着きますが、政府による検問にまきこまれる恐れもありますから二時間から二時間半みていただくほうがいいと思います」
電話口でコーディネーターに言われ、午前零時十五分のバスを予約した。ソギルの乗った工作船が着くのは三時だから、これでちょうどいいだろうと思ったのだ。
四日間の有給をとるのは難しいことではなかった。実績さえあればソシキは認めてくれるものだ、と、泰樹は考えている。傭兵時代に世話になった軍閥一家の息子が、夏休みを利用して日本に密入国するという。日本に滞在するあいだは、泰樹が泊めてやることになった。
あのころたった二つだったソギルが、もう十九になるという。
青森駅のパチンコ屋の前から発車するそのバスはがらがらに空いていて、泰樹はいちばん後ろの窓際の席にすわった。窓際にネオンが反射してまぶしい。
ほんとうのことを言えば、他人を泊めたりできる状態ではなかった。泰樹はため息をつき、目のまわりを軽くもんだ。自分の指がつめたく思えた。
ゆうべ、妻がリスを捨ててしまった。たっぷりと太ったシマリスの雌で、もう目も見えなくなっていたのに。泰樹が文句を言いかけると、妻は横向いてしまった。リスを捨てるなどという行為のために、傷ついたのは自分だとその顔が言っていた。暗い表情のまま、妻は泰樹に背中を向けた。
リスは妻の父親のものだった。彼が入信することになり、三週間まえに預かった。
父親の入信が、妻を打ちのめしたことは間違いない。後天性の超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力を有すると認められた彼は、たった三週間で四千人のボスになり、鮮やかな桃色の象がプリントされた衣装を着てかつらを被り、信者の前にすわって「悩みの記録」を読みながらティーボーンステーキを食べている。
「どこに捨てたんだ?」
泰樹が訊くと、
「タウンに放した」
と、妻はこたえた。
「どこのタウン?」
さらに問うと、
「どこだっていいでしょ」
と、不快そうに言い捨てた。嘘に違いない、と泰樹は思った。いくらこの女でも、リスをタウンに放つなんていうことを、ほんとうにするはずがない、と。でも、それからすぐに自信がなくなった。リスは現にいなくなっているのだし、妻に何ができて何ができないか、どうして自分にわかるだろう。
リスには、実際迷惑を被っていた。泰樹はもともとリスなど好きではなかった。「リスちゃん」と妻の父親が名づけたそのリスは、泰樹にも妻にもなつこうとしなかった。ベッドの中や、洗い立ての衣類の山の上に粗相をした(といっても、消しゴムのカスくらいの糞だったが)。びっくりするほど大きな甲高い声で、三時間以上鳴きたてることもあった(泰樹はリスが鳴くのだ、という事実をはじめて知った)。
「探しに行かないと」
泰樹は言ったが、そのとき自分にその気があったのかどうか、泰樹にははっきりと思いだすことができない。
家の中は静かだった。
「どこに捨てたんだ?」もう一度訊いたが、妻は返事をしなかった。
山道は空いていて、バスは快調に走った。
「たしかにスイッチを入れたんだ!」
ななめ前の座席にすわったサングラスの男が、携帯電話にどなっているのが聞こえた。
膝の上の鞄から、泰樹は携帯電話を取り出す。アラビア文字の、青いフォントで打ち出された宛名。文末には一家の紋様でもある黒い薔薇のマークがギコペで描かれている。添付されていたソギルの写真を開いて眺める。二歳のころに会っただけなので、ほとんど初対面に近い。でもきっとすぐに見分けられるだろう、と、泰樹は考える。鞄の中に携帯を戻し、窓の外を見る。
「どうして家に泊める必要があるの?」
ソギルの父親からメールをもらったとき、妻に話すとそう言われた。
「潜伏先をみつけてあげればいいじゃない。その子だって、その方が気楽に決まってるわよ」
そうかもしれない、と、泰樹は思った。そして、それでもどうしても、これは断るわけにはいかないことのように思えた。 ジャンガラ―――というのがソギルの父親の名前なのだが―――は、泰樹が息子を自宅に招くことを信じて疑っていないのだ。十七年前に、自分が二年間も泰樹に部屋を提供したように。
無論、莫大な額のアングラマネーを払っていたし、傭兵だった泰樹はしばしば特殊工作や暗殺などをさせられた。でも、ジャンガラの頼みをきかないわけにはいかなかった。
「たった四日だよ」
泰樹は妻に食い下がった。
「君はブータン人だし」
しまいには、
「これはソシキの問題なんだ」
とまで言っていた。ソシキの問題。たしかにその通りなのだ。しかしその言葉の意味するものが、妻にわかってもらえたとは思えなかった。
まぶしい。
カーブした道から、山越に発射台が見える。泰樹は、腕を額にのせて放射線を遮る。痩せているのに、腕を重たいと感じた。左腕だからかもしれない、と考えて、泰樹は苦笑する。左手首には妻と揃いの高価な腕時計が巻きついており、左指には結婚指輪と(いざというときの)青酸カリが重ねづけされている。
大きな青酸カリだ。こういうものは大きい方がいいに決まっている、と、妻も泰樹も考えている。安全。それこそが前へ前へ進む原動力なのだし、それに臆する必要がどこにあるだろう。
でも、妻はリスを捨ててしまった。
泰樹は妻を嫌いではなかった。いまも愛している、と言ってもよかった。自分より一回り年下の、背の高い、何を考えているかわからない女。外ではたいてい黒だが、家の中では白を好んで着る。左乳首の脇に隆起した小さなほくろがあり、泰樹はそれに触るのが好きだ。父子家庭で育ち、ずっと父親の自慢の娘だった女。泰樹を、テロリストらしい気分にさせてくれる女だ。
ゆうべ、泰樹が風呂から上がると、妻はパソコンをあけて仕事をしていた。家の中は静かだった。
「そんな目で見ないでくれる?」
泰樹に背中を向けたまま、妻は低い声で言った。
「リスよりソシキの方が大事でしょ?」
泰樹には、でもそれはこれから殺されるターゲットの背中に見えた。リスはげっ歯類だ。噛まれると、二筋の鮮やかな血液が指を伝った。
そりゃそうだ、と泰樹はこたえた。自分だってリスにはうんざりしていたのだ。妻を責める資格はない。台所でホワイトロッシアンをつくり、妻に持っていった。
「もう寝た方がいい」
そう言ったが、妻の目を見ることはできなかった。
「どうしてそんな顔で見るの?」
再び言われ、つい甲走った声が出てしまった。
「見てないよ」
と。そのときには半ばあとずさっていた。妻は薬指の青酸カリに手をかけており、泰樹は自分が妻を恐れていることに気づいた。
「君がどうしてそんなことをしたのかわからないんだよ」
それがゆうべ泰樹が妻と交わした最後の会話だった。