何百キロ

スペインに浮かぶ月、濃紺の海、ワイングラスに少しだけ残った赤ワイン。
グラスの淵を軽く噛む。
無機質だけど、神経質な作りのガラス細工。
でも僕にはそれを噛み砕く勇気はない。

もう何ヶ月もこうして、夜を過ごしている―――――― 死ぬつもりでここに来た筈なのに。

勘定を済ませると、町の中心から遠ざかる。ホテルとは間逆に。

石畳の陸橋に差しかかり、僕は靴を脱ぎ捨てた。
四月のマドリッド。床石はわずかに日の名残を感じる。
相変わらず空から半月が僕を睨んでいるけど、僕の意思は変わらない。

目に付いた壁画。嫌なタイプの微笑みを口元に称える壁画、憎たらしい。

僕は正しい道を歩いているのか?
ある地点から石畳は急に冷たくなる。踵の皮が強張って。

僕が歩いてきた道はこれで正しかったのか?
疑問の反芻は自殺への意思をあらぬ方向へ押しやる。

ふと血の臭いがして路地に目をやる。
暗闇で何かが動いている。微かだけど声も聞こえる。

男だった。坊主頭で頭から大量な血を流している。
「大丈夫ですか?」僕は英語で問いかける。

スペイン語で何かを言っている。祈りなのかもしれない。

僕は静かにその場を去った。一度も振り返らず。

そして日本に帰ってきた。
仕事もないし、恋人もいなかったけど、帰ってきた。

今、まだ僕は生きている。