第十話 彼女との出会い 2

 それも関係あるだろうね。うん、すごい関係あると思うね。
 オレは彼女に紹興酒の温め方を教える。彼女はオレの動作のひとつひとつをじいっと見てんだ。制服のボタンを左手でいじりながら、右手でオレの言っていることをメモしたりしながら。そしてそのあいだじゅう例のギョロギョロって感じで目を動かしてるわけ。オレ、きっと緊張していたか何かだと思うんだけど、とにかくそれで彼女のズボンに出来上がった紹興酒をブッカケしちゃったんだ。
 わりい、とオレは言う。土曜日は忙しいから、つい体が急いじゃって手元がおろそかになる、本当ゴメン、とオレは言う。熱くなかった?すぐにユカ・・・、サブマネに新しい制服用意させるから、とオレは言う。
 何にも熱くはありませんでしたよ、と彼女は言う。大丈夫ですよ、と彼女は言う。そして目をギョロギョロさせている。気にしなくとも構いません、私はそんなことで怒ったりしませんから。オレがユカを呼びに行こうとすると、彼女はにっこり笑って、手を軽く振る。そしてオレが新しいズボンを持ってホールに戻ったとき、その野暮女はもう新しい紹興酒をトレンチに乗せて、お客さんに給仕している。
 少しあとで、オレが侘びを言いに行こうとするとズボンが代わっていた。お前知ってるよな、あのズボンがどれだけ脱ぎにくいか?
 どうもありがとう、ご親切に、と彼女は言う。あなたって聞いていると、言葉で物事を定義したがる人ですよね。
 君は生物学的に見てなんだろう、宇宙幾何学的な見地から見ても、形而上的なメタファーを表現媒体とするいわゆる文学的精神に欠けているわけ?とオレは言う。
 そういうトコぉ!と彼女は言う。そうやって他人を自分の言葉で定義したがる。あなたって人の何が知りたいわけ?どこまで知れば気が済むの?と彼女は言う。
 君はその人のすべて知りたくないの?とオレは尋ねる。関わった人のすべてが、オレは知りたいよ。
 いや、兄ちゃん、そりゃ嘘だろう、とヒロは苦笑しながら口をはさむ。
 はぁ?と彼女は言う。
 オレはその話はそれで切りあげる。もっといろいろ突っ込まれそうで怖かったから。
 まあ、君は他人に興味ないって感じだから、とオレは言う。そして4人づれのこうるさいヒルズ族のテーブルに行って、飲み物の注文を聞く。
 ポスを打ちに行こうすると彼女はもうすでに新しい紹興酒を一人で温めにかかっている。デカンタに8年ものの紹興酒の瓶を傾けているところだ。
 いいですよ、と彼女は言う。ヨッシーって呼んでくれても構いませんけど。そしてまたギョロギョロ。いえいえ、別に嫌というわけではないんです。ええ、私もともとサックってあだ名だし、と彼女は言う。
 ああ、そうなんだ、とオレは言う。どうみても吉野さんって感じだけど、人は見かけによらないものだね、とオレは言う。
 メリーちゃん、と彼女は言う。メリーちゃんって感じ、あなた。子供の時にそう呼ばれていたでしょう?そしてギョロギョロ。彼女は口元に喜びを湛えている。他の従業員の前でオレを絵画展に誘う。
あの頭ボン。なんか偉そうなしゃべり方だよな、きっと大卒だぜ、と東川が言う。
 大卒が偉そうにみえるのは中卒の人だけですよ、とオレは言う。
 オレは灰皿を取替えに回る振りをして彼女に近づく。絵画って誰の?
 モネ。と彼女は言う。クロード・モネ。ねえメリーちゃん。モネのエメラルドグリーンは世界を覆い尽くしちゃうんだよ。どう、行かない?絶対行くよね?と彼女は言う。
 ああ、行くよ、とオレは言う。
 でしょう?と彼女は言う。
 そんな風に誘われたら、とオレは言う。行かないわけにいかないだろう?
 そうなんですか、と彼女は言う。ふーん・・・・・、と彼女は言う。
 でも少したって見てみると、彼女はそんなことを忘れたみたいに頭をボンボンさせて仕事をしている。
 オレの受け持っていた団体のお客はもう帰ってしまっていた。ヒルズ族も帰ってしまい、オレの担当エリアはすっかりがらんとしている。オレがその野暮女にまかないのメニューを伝える頃には、遅めのランチを取るキャリアウーマンと酔いつぶれた子連れの夫婦だけになっている。
 オレは彼女の器にたっぷりとキッチンのホープ“みっちゃん”の作った麻婆豆腐をかけてあげる。オレは鶏の唐揚げと空芯草の炒めを麻婆豆腐の上に散らす。オレは彼女の分の卵スープを入れてあげる。中華料理に興味あるようにはみえないね? と打診する。
 ありませんよ、と彼女は言う。そして目をギョロギョロ動かす。ええ、そんな人はキッチンで働くでしょう。
 そりゃそうだろうね、とオレは言って、自分のまかないを掻き込み、ぬるくなった卵スープで胃に流し込む。
 今ではオレにも、自分が何かを求めていたことがわかっている。でも何を求めていたのかはわからない。
 羊さあ、あいつと絵見に行くの?どこがいいのあんな野暮なのの、と健太郎が言う。ヒロさ、健太郎のことは知っているよね?あの腹の出たラッパー野郎。
 あのさ、とオレはその野暮女に言う。2000円ランチ用のマンゴプディンとココナッツプディンが余ってるんだよね。オレはココナッツお薦めだけど、上にさ、生クリームがかかってて。あれはよそじゃ食べられないと思うんだ。
 ひょっとして食べさせてもらえるんですか、と彼女は言う。ギョロギョロとして、心配そうな顔つきで。
 もちろんだよ。どっちがいい?とオレは言う。ゆっくり考えてよ。そこの冷蔵庫に入っているから、とオレは言う。アイス珈琲か何か飲むか?
 アイス珈琲、と彼女は言う。そして彼女は座り直し制服のすそを引っ張る。メリーちゃんは絵見るの好き?私は大学生の時から大好きなんだ、上野が。
 オレはバーに行って彼女の分のアイス珈琲をグラスに注いでいる。するとユカがこう言う、吉野さんにご執心じゃん。健太郎が言ってたけど、それ本当なの?
 ユカさ、マジぎれしてんの、信じられないよ。
 ねえユカ、あの子は確かにちょっとドン臭そうに見えるけど、とオレは言う。でも、仕事はきっちりできるぜ。
 ユカはやばい系の笑いしてんだよ。
 あの子のことになると、やけに庇うんだね、と彼女は言う。
 羊さん、吉野さんと絵見に行くんですか、と同じく新人の小林が言う。
 ねぇ、最近はああいう髪型が流行ってんの、吉野さんみたいな?とユカが小林に言う。
 オレはアイス珈琲を野暮な女の前に置く。たっぷりと生クリームのかかった香港式ココナッツプディンをグラスの脇に置く。
 メリーちゃん、どうもありがとう、と彼女は言う。
 どういたしまして、とオレは言う。そしてある感情がオレをとらえる。
 信じてもらえないかもしれないけれど、と彼女は言う。私いつもこんな大胆じゃないんだよ。
 オレなんか言葉も通じないのにセックスしてたカップルを知っているよ。
 あはは、と彼女は言う。それってフォローのつもりなの?メリーちゃんの優しさって難しいね。
 それから彼女はスプーンを手に取って食べ始める。
 それから?とヒロが言う。彼はオレの煙草を一本取って火をつけ、胡坐を崩して膝をコキコキ鳴らす。普通はメリーちゃんとは呼ばないよね?ちょっと面白くなってきたね、とヒロは言う。
 それだけ。それでおしまい。その日はそれきり彼女と話す暇もなかった。それから俺たち家に帰るんだよ。ユカとオレで。
 ひどい髪型だったよね、とユカはいかにも憤懣やるかたないという表情で鼻息を荒くしながら言う。そしてふふんと鼻で笑って、またオレの乳首を舐める。
 オレはコンドームを取りに、台所へ向かう。ホットナイフで一服して、ふとこう思う。もしオレがあんな自信を持って今まで生きていいたら、アンテナが動いたときにすぐさま動けていたら、いったいどんな人生だっただろう?
 オレはコンドームをはめて、開かれるのを待っていた足の間に体を割り込ませる。そして腰をゆっくり寄せる。まるでそのことをずっと考えていたみたいに、ユカはこう言う、私さ高校頃ひとりレイプされた子を知ってた、ううんふたり知ってたわ。すごい野暮ったい子だった。髪型とか本当にひどいのよ。私はあの子達の名前思い出すことができない。ひとりの子なんて“ちゃんこ”と言う名前しか持たなかった。私たちはその子のこと“ちゃんこ”って呼んだ。うちの隣に住んでいた子よ。幼馴染だったの。もうひとりは高校で知り合った子だよ。その子の名前は“豆子”って言った。先生を別にすれば、みんなその子のこと“豆子”と呼んだ。“ちゃんこ”と“豆子”よ。その子たちの写真を見せたいわ、本当に、とユカは言う。
 何を言えばいいのかよくわからない。我々は淡々とその儀式を遂行し、ほどなくオレは背中に痛みを感じながら、射精する。ユカもシーツを握り締め、髪を頬に張り付け、下腹部に力を込める。
 オレは身を震わせ、ゆっくりとユカの中から取り出す。でもすぐに、ユカの両手がオレの腰を抑えそれを自分の口元に運んでいく。
 オレは気が進まないけれど、それでもコンドームを外し、中身をユカの口の中に注ぎ込む。でもそのときにそれが起こる。彼女がオレの精子を咽を鳴らして飲み干すとき、オレはとつぜん自分がものすごく野暮になったように感じる。性すらも形骸化されている事実に愕然とするのだ。おかげで彼女の奉仕的な行為は瞬時、唾棄すべき性の堕落に成り果て、オレは彼女が見えなくなる。
 考えすぎだよ、兄ちゃん、とヒロは言う。でもそれをどう説得してよいのかよくわからなくてテンパってるのがわかる。
 オレは気持ちが落ち込んでくる。でもこれ以上彼にこの話はしない方がいい。すでにオレはしゃべりすぎているのだ。
 彼はそのままじっとそこに座って待っている。刺青の入った右手で坊主頭をこすって。
 いったい何をまっているんだよ、教えてくれよ。
 今は3月だ。
 オレの人生は変わろうとしている。オレはそれを感じる。