the second story ~クリスタル睡眠~

私は仕事上、その宝石店の前を通ることが多かった。
ショーウィンドウに直径30cmのクリスタルが飾ってある以外なんてことはない、平凡な宝石屋だった。金無垢の台座の上に、ぴたりと揺るぎなく座っているクリスタルを発見した私は、心が弾むのを抑えられなかった。それは恋に似た感情で、以来、私は何かにとりつかれたかのように宝石屋へ足を運んだ。

ただし店の扉は、いつまでも私を拒否し続けていた。なぜだか分からなかったが、店には入れなかった。あの人と一緒に来たかったからそんな風に見えたのかもしれない、と今は思う。


 ある日の夕方、私はいつものようにその宝石屋の前を通りがかった。今にも雨が降りそうな、4月の日曜日だった。
信号待ちをしていると、宝石屋から女が怒気を孕む表情で出てきた。女は横断歩道の前で煙草に火をつけると、煙をはいて店をもう一度睨んだ。その後女は信号を無視して横断歩道を渡り、車にクラクションを鳴らされながら雑踏に消えていった。

突然、霧雨が私の頬を濡らした。傘は持っていなかった。

恐る恐る宝石屋を覗く。何故だか扉はいつもの勢いがない。先ほどの女のきつい視線のせいか覇気を失っているようにも見える。

よし。

意を決して扉を開けると、まず40歳くらいの人のよさそうなおじさんが新聞を読んでいるのが眼に入った。カウンター越しに私を見つけると、ゆっくりと新聞を折りたたみ、いらっしゃいませ、と言って微笑んだ。
 主人は極度の近視らしく、眼鏡なしには近くのものが全く物が見えないといった様子だった。カウンターに置いてあった眼鏡を取るのにたっぷり、17秒以上はかかっただろう。

 「あの宝石、見せていただきたいんですけど」迷わずショーウィンドウを指差した。30万円以内なら買おう、と心に決めた。
ところが主人は私をきつく睨みつけカウンターへ戻ると、また新聞を読み始めた。
「あれは売りもんじゃない、帰ってくれ」主人はこちらを見ずにそう言い放つと、それきり黙った。
私は東京のど真ん中でこんな存外な態度で接客されたことが無かったため、言葉を失った。しばらくその場に立ち尽くしていると、主人は憎憎しげに私に幾つかの雑言を吐いた。
 なおもそこを立ち去らない私に痺れを切らした主人は、今度は懐柔策に出た。
「あんたね、あれをあそこに飾ったあたしも悪かった。それは謝る。すまなかった」主人は深々とお辞儀すると、でもな、と続けた。
「でもな、あれはさっきも言ったけど、売りもんじゃないんだ。さっきのお客にもそう言ったんだがね。でも飾らずにはおられんだろう。あんな美しいクリスタル」
「それはそうかもしれません」私はやっとの思いでそれだけいうと、溢れてきた涙を手の甲で拭った。
 私が泣き出すと主人は年頃の少年のように慌てた。そして奥から椅子を取り出してきて私を座らせて紅茶を振舞ってくれた。

「あれはね、スリープレスクリスタルといってとても貴重なクリスタルなんだ」主人はティーポットから琥珀色のダージリンティーカップに注ぎ分けながら、そう言った。
「スリープレスクリスタル?」
「そう、眠らないクリスタルだ。あれはね、夜でも輝いているんだ。一晩中さ」紅茶を一口啜ると主人は誇らしげにそう言って立ち上がり、ショーウィンドウのカーテンを閉じた。驚くべきことに、確かにクリスタルはそれ自体が光を放っているかのように、カーテンに七色の輝きを映し出していた。
「光を吸い込むんだ」
「いつ」
「光がとても純粋な時。朝だよ」
「朝」

私は次の日の朝、鳥もまだ鳴かない時間に、タクシーで横断歩道の前に来た。時計を見ると午前4時20分だった。お金を払うと、タクシーを降りる。

そして店のショーウィンドウの前に立った。私は向かいのビルの谷間に微か光る太陽を睨んだ。カラスが空を旋回している。ホームレスの男がくしゃみをした。
しだいにゆっくりとだが、ビルの隙間から朝日がこぼれて来た。私の頬がじわりと温まる。自然と体が、喜びを訴える。激しい喜びを訴える。
頬をショーウィンドウ当てると、ひやりとした感触が口中に溢れる。自分の吐息でガラスが曇るのが分かる。


眼を開けると、私は暗闇の中にいた。頬にはまだひやりとした感触が残っている。目の前のガラスは確かに存在している。しかし暗闇以上に私を驚かせたのは、私が全裸になっていたことだった。
いつ脱いだんだろう?どこ、ここは?
疑問がいくつも湧いてくる。

すると目の前の暗闇がスルスルと開け、私が立っていた。目の前の私の背後には、横断歩道が延びている。上を見ると、昨日会った主人がショーウィンドウの向こう側にいる私に驚いていた。
急いで鍵を開けると「どうしたのかね、こんなに早く」と言って、寝癖のついた頭を掻いた。
ショーウィンドウの前の私は今朝確かに私が着てきた洋服を着て、照れくさそうに笑っていた。
「実は、見に来ちゃったんです。光を吸い込むところ」

私はその日からクリスタルの中で生活している。今晩も鉛の扉のような重い眠気が私を襲い、朝、猛然とした食欲で眼が覚める。光をある程度吸い込むまで、空腹は収まらない。それを知ってか知らずか、主人は日の出の時刻を見計らって、毎朝、カーテンを開ける。多分、知っているのかもしれない。

私は、たまに私自身を見かけることがある。外の世界の私は、この私の不在に気がついていないらしい。いつものように私を覗き込むと、まるで私がクリスタルの中に存在していないかのように、遠い眼差しで、私を見つめる。