第二十九章

「結局、現代における宗教ってのは、エロティシズムの曲解かファッションでしかなくなっているわけですよ、ダイさん」羊は見舞いに来たダイチに向かってふてぶてしく言い腐る。

「そうかもしれないねぇ、ほら、りんご剥けたよ、羊くん。美味しいよ、はい」ダイチはそんな羊の態度を見ぬ振りをしていたかのように、無邪気に微笑み、りんごを羊の口に運ぶ。

「モゴモゴ」(咀嚼中)

・・・・・・・「ごくり、はぁ、美味しいですね。このりんご!」羊の瞳は輝く。激しく輝く。
友情。
包容力に満ち溢れたこの男に魅了されざるを得ない幼い、羊。羊はいつだって人に感動し、共感し、自分の中にある核心を見ようとはしてこなかった。

「こわいんだね?」
初めてダイチの部屋に行ったとき、彼は唐突に羊を見て言った。「こわいんだね?」

もちろん、そこに至るまでには「はじめまして」や「ボク、羊といいます」「ああ、よろしくねぇ、ボク、ダイチ」と言った他愛のない挨拶はあったが、ダイチがダイチの言葉で“言った”のはそれが初めてであった。「こわいんだね?」

確かに羊は恐れている。いや、恐れていた。
自分自身を深く見つめないように努めて、いた。お化け屋敷に連れて行かれた幼子が父や母の太ももの影に身を潜めるのと同じように羊は、そのとき自分が歩いていた近くの大樹の陰に隠れて、世の中を窺って、いた。まるでそこが恐ろしく不快で汚らわしいものでもあるのように見て、いた。

今、羊は恐れずに反論してみようと思う。美味しいりんごにごまかされずに、反論してみようと思う。あらゆるものに反論してみようと思う。

宗教、政治、性、文化、科学、幸不幸論、哲学、ハイドンから全自動洗濯機まで、家庭、離婚、病、健康、喜び、悲しみ、交通事故からラブホテルに置いてあるあのちんけなハードムースに至るまで、すべてに反論してみようと、思う。

反論してみようと思う。

それで冒頭。

「結局、現代における宗教ってのは、エロティシズムの曲解かファッションでしかなくなっているわけですよ、ダイさん」

でもどうだろう?
果たしてこんな議論が世の中の役に立つとはまったく思えない。
それは全自動洗濯機を睨み付けたってどうにもならないのと、一緒だ。

しかし反論してみようと、羊は思っている。
りんごの甘酸っぱさとダイチの蕩けそうな笑顔と、秋の麗らかな午後の日差しと、換えてもらったばかりの洗い立てのリネンのシーツの程よい固さにも、負けず、反論してみようと思う。宗教に、ダイチに。

なぜ?

なぜだろう・・・・・。

そうしたかったから、する、としか言えない。

「あの、りんごもらった手前、こんな天気の良い日に、素晴らしい日の午後に、ダイさんの笑顔の前で、本当にこんなこと言うの失礼なんですけど、ボクには宗教って信じられないんですよ。心の底から。だからダイさんみたいな無欲な人のあり方って本当のところ理解できないんですよ。もちろん、あなたのことは本当に大好きです。でも、あなたみたいな生き方がどうしてもボクには肯定できない。だからあなたの部屋に張ってあったあのインドのなんて言う神でしたっけ、女性で子供食べちゃう奴?」

「ああ、ハルティマターね」ダイチは羊の瞳を見て応えた。その応え方は、いかようにでもとれそうな、中立的で優しいものだった。「仏教では鬼母神と呼ばれている。それが?」
羊は2,3咳き込むとゆっくりとこう言った。「あんなポスターを意味を知っていて貼る人間をボクは信用しません。子供を喰らう神なんて、そんな過去を持った神なんて信じないし、信じられない」

ダイチと羊は無言で固まった。しかし羊のそれとは大きく違い、ダイチの態度は相変わらずすべてを受け入れるよ、という暖かい空気のままだった。それに引き換え、羊は、小さく凝り固まって目を窓から外ささなかった。

「いいかい、羊くん」口を開いたのはダイチだ。
「時間軸を持っているのは男だけなんだよ。過去に固執するのは男だけなんだ。女性は、今、が一番大切な生き物なんだ。そして神ってのは鬼母神さえも許す。心を入れ替えた鬼母神はその後子供を守る神になる。女性はいいよ、特に罪深い女性は。味わいがあるよ、ねぇ、君?」とダイチは点滴を代えに部屋に入ってきた看護婦に向かって言った。

看護婦は、赤面した。