the first story ~生きる女~

 目覚ましが鳴る。
 白く長い指をした手が時計に被さり、電子音は止んだ。ふたたび静寂が部屋を支配する。
部屋は霞みかかったように薄暗く、青白い。やおら白い掛け布団が持ち上がり、女が起き上がるのが見える。肩より長く伸びた髪は、僅かに乱れている。女は難儀そうにベッドから足を下ろすと、両腕を抱え身震いをした。部屋は寒気で満たされている。
 季節は初春。桜はもう散ってしまったが、朝はまだ冷える。

 ゆっくりとハロゲンヒーターが暖気を吐き出し始める。女は両足をヒーターの前で擦りながら、まだ震えている。寒い。女は一人ごちた。しばらくそうしていたが、時計の数字を確認すると、意を決して、立ち上がり、カーテンを開けた。白んだ景色が女に覆いかぶさるように開けた。

 パンを2枚トースターに放り込むと、女は洗面所に向かった。蛍光灯を点けると、髪をバンドで止める。パウダー状の洗顔料を手馴れた手つきで泡立てる。そして注意深く鏡を覗き込むと、舌打ちをする。
左の頬ににきび。ゴマ粒より小さいくらいか。白く腫れた粒に何度か指をあてたが、結局潰さなかった。

 注意深く顔を拭うと、鏡に近づく。人差し指で恐る恐る触ってみると、先ほどより少し腫れているようだ。
ファンデーションを丁寧に塗ると、気が付いたようにパンの焼け具合を見に台所へ向かう。やはり焼きすぎて固くなっていたパンは、やはり女をがっかりさせたようだった。2枚のパンをゴミ箱に捨てると、冷蔵庫からファイブミニを取り出し栓を開け、一気に飲み干す。

 クローゼットを開けて、先週パルコで買ったNatural beautyの薄黄色のセーターに袖を通した。鏡の前でジーンズとスカートを交互にあてて、結局スカート選んだ。インナーは厚手のTシャツ。ヒステリックグラマーのものだ。髪の毛を軽く掻き揚げて、後ろで団子を作っている。最近のお気に入りの髪型で、後れ毛の処理を間違えるとひどくだらしなく写ることが難点だが、女に良く似合っている。

 今日は来客があるからか、いつもよりヒールの高い靴を選んだ。定期と財布があることを確認して、電気メーターを見上げる。それはのろのろと廻っていて、女を安心させる。女は出掛けに必ず電気メーターを見る。去年の夏にクーラーを点けっ放しにして以来、それは彼女の癖になっている。
鍵を閉めるとそれが確実に締められているか確認した。扉は固く閉じている。コツコツと心地よい音を立てて、エレベーターまでの道を急ぎ足で進んだ。

 ボクはモニターから眼を離し、時計を見た。9時12分。昨日より7分遅れている。果たして遅刻せずに着くだろうか?そんなことを考えながら彼女の動きをメモすると、ボスに電話を掛けた。2コールして野太い男の声が受話器を震わせた。「もしもし」
 「おはようございます。私です。お休みでしたか?」
 「いや、起きているよ」と、ボスはしわがれた声で言うと咳払いをした。
 「轟、今日でこの仕事は終わりだ」
 「と、言いますと」
 「明日が女の葬式だってことだ」ボスはそう言うと後処理の簡単な指示をして、電話を切った。ボクは、受話器を置いて大きく溜息をついた。そしてサイドテーブルにおいてある女の写真に眼をやる。彼女は(外国へ行った時のものだろう)ピースサインをしてレンガ造りの家の前で笑っていた。屈託無く、笑っていた。彼女を観察して、今日で128日が経っていた。