第二十八章

「羊的アート」

27歳の羊は、アーティストになっていた。
そんな馬鹿な、と思うが、本当のことだ。
そもそもアーティストというのは誰でもなれるものなのだけれど、仕事があるかはまた別の問題だ。それ―――即ち、金が稼げること―――を、プロフェッショナルと規定するならば、27歳の羊はアマチュアだった。

羊はいま広州にいる。

「ザッツ シャンハイ」という雑誌にピンと来る人達がいるだろう。
彼らは、60年代に生まれていたらカリフォルニアにいただろうし、70年代に生まれていたら、グリニッジ・ヴィレッジを目指していただろう人たちだ。しかしボクは、個人的にだけど、「ザッツ シャンハイ」でアパートを探した人達を最も先進的だと、考える。どーでもいいことだけど。

まあそれはいい。羊の話だ。
羊は、27歳で、友人の口利きでその雑誌のために、広東でお茶の取材をしていた。
羊はマルティリンガル―――中国語と英語が話せる―――の奇妙な羊なのだ。

冒頭でお話したとおり、羊は田舎の旅館の息子である。両親は英才教育はもちろん、海外なんてアメリカと中国が同じだろうと、なんら支障はない生活をしていた(もちろんそれほど愚かだったわけではないけど)。
羊の周りの人間も、皆、そう考えていた。もし仮にあの当時(羊の高校時代)外国に羊を住まそうと考える人間がいたとしたら、北朝鮮工作員くらいなものだ。それほど、羊は牧歌的な田舎で育った。

そんな羊がどうして外国語に通ずるようになったのだろう?

その鍵は<元緑屋社員寮>あった。

<元緑屋社員寮>には、沢山の外国人が住んでいた。韓国、中国はもちろんアメリカ、ブラジル、トルコ、イスラエル南アフリカ・・・・。とにかく大勢だ。
もちろん、その半分はビザなしだったし、白人なら大半はタイ経由だったし、中国人だったら蛇頭の世話になっていた。そして概ね、彼らのは犯罪や何かの夜の商売(バーであったりなんだり)に関係していた。
恐ろしいと言えば、恐ろしいし、信用だってできない。
しかし彼らは一様に酒好きで、明るい性格をしていた。そして、酒を飲めば、下手糞な日本語はすぐに彼らの母国語に変化した。

そんな環境で羊は3年過ごし、英語でなら女も口説けるようになっていたし、中国語ならとりあえず生活に必要なことがまかなえるようになっていた。何が人生を左右するか、わからないものである。

横道に逸れたが、羊のアートの話だ。

羊の表現方法は、生き方、存在のアートだった。羊的生き方をすることが、イコール羊的アートである、という考えである。思い込みというのは恐ろしいが、羊に言わせると、「カール・マルクスをアーティストと呼べない所以はない」ということらしい。羊的アートからいえば、大政奉還だって、アートであるらしい。

さて、そういう訳だが、羊はまだその生き方で金を稼ぐまでには至っていない。
しかし、それはすぐになるだろう。
Q:?
A:なぜなら、ボクはこの物語の作者で、5年後の羊をどうしたいのかもボクが自由に決められる権限を持っているからだ。

すごいだろう、えっへん。Q&A。