羊の図書館 序章

序章

まずは羊の話からしよう。中学3年生の健康な羊だ。

羊は小さな田舎町で生まれ、現在、15歳までそこで暮らしている。
イトーヨーカドーがないのはもちろん、マルイや西武、ユニーだってコンビニエンスストアすら一軒もないような寂れた町に父と母と妹の4人家族で暮らしている。
父は旅館を経営していて、母は女将。旅館といっても、こんな野良犬ばっかりで名産品も何もない町に、
旅行客が来るわけでもなく、いつも閑古鳥が鳴いていた。

小学校5年生の頃、羊は父親の人生をくだらないものだと考えるようになり、そんな父をサポートする母もまた頭の悪い人間だと考え、二人から距離を置き始めた。そして今年の夏に、父の職業を自分が継ぐことはほぼ確実にありえないし、またこの町に留まって生活していくのも嫌だと感じるようになった。頭を絞ったあげく、隣町のその又隣にある有名新学校を受験しようと決め、その日から猛勉強を開始した。

ある晴れた秋の終り。羊は授業が終るといつものように家には帰らず、学校の図書館へ向かった。苦手な英語を克服するために、外国の文学を読んでみたらどうかと考えたのである。図書館の扉を開けると、西日に蒸された古書のカビの匂いだろう、乾ききった油揚げのような異臭が羊を襲った。噎せて咳をすると、本のページを大げさに繰る音がした。そしてカーテンの後光を浴びたシルエットがカウンターに浮かんでいることに気が付いた。それは実に女の子チックなシルエットだった。ちょんまげのように髪を結んであり、なで肩で。
羊が静かに扉を開けたせいもあるが、女の子は羊の存在には気が付かず無心に何かの本を読んでいた。
まるまる17秒後、やっと羊に気が付くと彼女は手元に外しておいた眼鏡をあわてて取り、それを掛けた。
「なにかお探しの本でも?」女の子はいささか慌てている風だった。
羊はうまく言葉がでず、英語の本、とだけ言うと曖昧に女の子から眼をそらした。
「英語の本って、英語の勉強の本ですか、それとも英語で書かれた方?」医者が患者の様子を窺うかのような様子で女の子は訊いた。
「英語で書かれた方」やっとの思いでそう答えると、バッグに付いているスパイダーマンのアクセサリーを左手でいじくった。
女の子は毅然と立ち上がるとカウンターを潜り抜け、しばらく本棚の周りを歩き、一冊の本を取って羊に手渡した。実に素晴らしい手際だった。「これ、面白かったですよ」
「もう読んだの、これ?」本を受け取りながら羊はそう訊く。
「私英語得意だし、これすごく簡単な本だから」女の子は少し照れながら、おでこに掛かった髪を掻きあげると、またカウンターに戻った。

本は文庫サイズで表紙もきれいに残っていた。表紙には太いゴシックで“25 strange stories”と書いてあり、タバコを咥えている女の横顔が黒とピンクだけを使って濃淡をつけた、だがとても単調なタッチで描かれている。作者名はなかった。
本をバッグにしまいながら、ありがとうと羊は言った。
どういたしまして、と女の子は羊の方を見ずに言った。
「いつ返せばいいのかな?」羊はごく当たり前の質問をしたつもりだっただが、女の子は羊が何を言っているのか分からないという顔をした。そして何かに思い当たった顔をして「“あなたが卒業するまで誰も借りに来ない”に千円掛けるわ」と言った。
羊は軽く微笑むともう一度ありがとうと言って、図書室を出た。